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アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く。

先日、厄除けの祈祷を近くの禅寺で受けてきた。祈祷を受けなかがら、60年間を振り返ったのだが、ふと、こんな言葉が頭をよぎった。

アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描く。

ジャーナリストの佐々木俊尚さんは、このことをコラムで、日本映画には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っている、と表現されていた。

自分なりに解釈すると、日本映画の「風景」とは、景色ではなく、「うつろい」のことを指すのだろう。

「うつろい」の中には、人間関係も、人生のドラマも全てが含有されている。そしてそれは目の前で繰り広げられているものではなく、ギャラリーとして、どこか引いて見ている、そんな視点のことのように思う。
 
あり得ないことが起こった時に、“まるで映画を見ているようでした”という表現をするが、日本人は、日常の風景であってもどこかフレームの中の景色として、現実を外から捉える傾向が強い。確かに、日本映画はそのような日本人の性質を表している。

そこには、感情表現が苦手で主体的でない日本人気質のようなものを感じる。

アメリカ人であっても、フラン人であっても「うつろい」とはそういうものなのだが、その中の、一つ一つのドラマや、登場人物との関係よりも、「うつろい」そのももを慈しむのが日本人らしさともいえる。

しかしである、「光陰矢の如し」残された時間はそれほど多くはない。これからの一日、一日を、突き抜けられない向こう側とすることなく、主体的に自分のドラマを演じていきたい。

フレームの外で、自分の人生を慈しむにはまだ早い、それは最期の最期にとっておこう。

禅寺で和尚の祈祷を受けながら、感じたのはそういうことです。


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