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そうだ!禅を組もう!今を生きるおとなの嗜(たしなみ)! 

60年近く生きてきて、間違いないだろうと思うことがある。それは、充実した時間というのは、今を生きることに夢中である瞬間のことだ。

過去を振り返ったり、未来を予測したりにワクワクすることもあるだろうが、それであってもそれを考えているのは、今現在の自分である。

そして、何より、過去の反省を踏まえてであろうが、まだ見ぬ将来を切り開くためであろうが、それを胸に今を生きることが、充実につながるのだろう。

無我夢中とは必死に生きること

無我夢中だとか、必死になるだとかは、今を生きるのに一所懸命であることを意味する。

例えは悪いが、もし自分が最前線の戦場に立ったとしよう。戦場では、おそらく過去も未来もなく、まさに今を生きることに集中しなければならない。

ここで、充実という言葉を使うのは用語として間違いであるが、必死であることは間違いない。

命をかけて、必死になることを余儀なくされた場合、どんなに知力や体力があったとしても、生き残るのは、現状に集中した者であろう。必死になって、無我夢中で生きると決める、絶望したら、そこで終わってしまうかもしらないからだ!

そんな状況の下で、並外れた胆力を持った者か、運を持ったものだけが生き延びる。

命をかけるということ

自分の人生を振り返って、命懸けで何かをしたことがあったかを振り返ると、そんな経験は思い付かない。大前提として、命より大切なものなどあるはずもない。今の時代ナンセンスな問いかもしれない。

それでも、あの時はヤバかったな!一歩間違えば死んでいたかもといった経験は、一度や二度はあった。温浴事業を営んでいたので、水没した地下機械室に素潜りしたが、電気機器類が満載されている中、電流が鳴かれれば感電しただろう。

組み上げた温泉に泥が含まれ、詰まった大型水槽の中で作業したが、地中のガスも汲み上げられていたら、中毒になっていただろう。
 
今、考えると十分な安全策を採った行動ではなかった、後に専門家から注意を受けたが、なんとかしなければという思いが強く、結果、なんとかしたけど、運が良かっただけかもしれない。
 
それでも、問題を解決しようと、今を行動した時間は充実していた時期だったとおもう。
 
逆に、運営がしんどくなり、事業を売却する決断をのんだ経験もある。この時は、今を生きる選択を諦めたことになる。今現在、その過去を振り返る事に充足感はないし、当時も、その未来に明るさを感じられなかった。

今を生きる禅の教え


 間も無く還暦を迎える僕は、月に1度、近くの禅寺で座線を組んでいる。

禅は、道元(どうげん)大師によって広められた、仏教の教えだが、教えの中で重要なのは「即身即性」(そくしんそくせい)という考え方である。
 
即身即性とは、簡単に言うと、「今この瞬間に真実を体験すること」である。つまり、過去や未来ではなく、現在に注意を向け、その瞬間の経験や感覚を大切にするということを意味する。
 
例えば、坐禅をするとき、座っている姿勢や呼吸を感じることに集中するように教わる。過去のことや未来のことに心を奪われるのではなく、今、座っている自分の感覚に注目することで、真実を見つけることができる、という考え方なのだ。
 
ところが、自分と向き合うのがなかなか大変、人間はこうも過去や未来のに取り憑かれているのかと実感をしてしまう。喝!
 
残された時間は短くはないだろうが、それほど長くもない、むしろ今からの時間は、神のみぞ知るだ。

過去に命懸けで生きたかどうかよりも、今から何かに命をかけて取り組むよりも、今生きることに懸命になることの大変さと重要さがわかる。
 
戦場に行くなんて、まっぴらごめんですよね。だけど、たまには禅寺で禅を組むのはおすすめです。今を懸命に生きることは、まさに命懸けなのである。



 
 
 

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