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一週遅れの映画評:『カラオケ行こ!』失うものは、選べないけど。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『カラオケ行こ!』です。

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 原作から映画化するにあたって二つの大きな要素が追加されているんですよ。それが「主人公が映画研究部を掛け持ちしてる」「紅の歌詞にある英語部分を翻訳する」なんですけど、これがめちゃくちゃ重要なんですよね。まぁ「わざわざ追加してるんだから、意味が込められているのは当たり前」って話ではあるんですけど。
 
 まずはあらすじ。中学三年生で合唱部の部長である聡実くんは、唐突にヤクザの若頭補佐である狂児に「カラオケ行こ!」と言われるわけです。というのも、狂児の組でカラオケ大会が定期的に開催され、そこで一番歌がヘタなヤツが罰として組長の手でクソ下手な刺青を彫られるっていう。
それを回避するため、合唱部部長から歌の手ほどきを受けようと画策した……と、まぁそんな話なんですね。

 最初はヤクザだから怖いし、何のメリットも無いしで嫌々相手をしていた聡実くんなんだけど、カラオケに何度も行ってるうちに狂児との間に奇妙な友情めいた関係ができていく。
 一方で合唱部ではソプラノパートを担当しているんだけど、中3になっていよいよ「声変わり」がはじまろうとしている。喉の変化を自覚しつつも、まだ一応ソプラノパートの音はだせる。それでも最後の大会までもつかどうか分からない。そういう悩みを聡実くんは抱えているんですね。
 
 それで、映画で追加された「映画研究部」っていうのが、部員7名のうち幽霊部員が6っていうw聡実くんも幽霊部員だったんだけど、声変わりの不安から時々合唱部をサボって映画研究部にやってきて、唯一部室へ来ている友人と古い映画をただ見るだけって活動をしているわけですよ。
 それでこの部室にあるのがビデオデッキとVHSのビデオテープだけで、しかもこのデッキ壊れかけてて「再生はできるけど、巻き戻しができない」、つまりどの映画も一方通行というか、一度見たら二度と見返すことができなくなってる。
 
 聡実くんの状態、狂児の環境、そして壊れかけのビデオデッキ。
これらに共通することって「不可逆なもの」なんですよね。声変わり、というか第二次性徴を迎えた体は基本的に元へ戻ることは無いし、刺青だって消すことができない、壊れたデッキでは巻き戻しができない。この作品ではそういった「不可逆なもの」を描こうとしているのが、原作から追加された映画研究部によってクリアに示されているわけですよ。
 そしてその「不可逆なもの」は行動にも掛かってくる。当たり前だけど人間は物理的に同じ時間、別の場所で同時に存在できないわけで、人は常に「いまから自分はどこに行くのか?」を問われ続けているって言えるじゃない?

 映画の終盤、聡実くんは中学生活最後のコンクールに向かう途中でバスの中から事故現場を見るんです。そこで他の車に突っ込まれて潰れた凶児の車を発見する、何度も半ば無理矢理に乗せられた車を見間違えるはずもない。さらにはそこに到着していた救急車に毛布をかけられた誰かが運ばれるのも見てしまう。
 合唱コンクールの日はたまたま凶児の組で開催される例のカラオケ大会と同じ日。コンクール会場に着いた聡実くんは、そこから飛び出してヤクザのカラオケ大会へと向かってしまうんですね。

 これって普通に考えたら何の意味もない行動なんですよ。凶児が事故で大怪我してたり死んでたりしたらカラオケ大会に行っても会えるわけでもない、そもそも聡実くんには凶児を心配する義理なんてどこにもない。
ただ一方で、声変わりを迎えてしまった聡実くんは今日の合唱コンクールに出ても、歌うことができないわけです。いきなりパートを変えることもできないどころか、まともに歌声が出せるか怪しい。
どっちに居たって大した意味がない、だけどそれは翻って「どっちに居ても良い」っていう自由でもあるわけです。どう考えても合唱コンクールの会場にいるほうが安定ですよ、歌えなくても部長として応援して、どんな結果になっても「良かったね」的に丸く収まる。ヤクザが集まっている場所なんかに行ったら、どんな目に合うかすらわからない。

 だけど聡実くんはヤクザのカラオケ大会に行く。
 聡実くんは声変わりによって、これまで頑張ってきたものを失っている。部活の方はある種その損失を無視する場なんですよね、万が一歌えなくなったときのために控えの後輩がいる、そうじゃなくても卒業したあとだって「部活」って形態は当たり前に残り続けるし、そこには歴代部長として自分の居場所があったことは証明される。
だけど死んでしまったら凶児とのことは全部消えてしまう。自分と一緒に練習してきた凶児の歌声は、二度と誰にも思い出されなくなる。それって「失われた聡実くんの歌声」と「死んでしまった凶児の歌声」が重なっているわけで。だから聡実くんはカラオケ大会に向かうんですよ、最後の思い出を「これからも続くもの」と「もう永遠に失われるもの」どっちで作るか? って考えたとき、聡実くんにとっては自身の「永遠に失われたもの」と重ねて寄り添うために。

 さっきも言ったように人は常に「どこへ行くのか?」を問われている。そういった選択の不可逆性に対して「カラオケ行こ!」を選ぶわけです。
 それでね、もうひとつの追加シーンである「英語歌詞の翻訳」がここで響いてくる。これが関西弁バリバリの結構な意訳で行われるわけです、ある種これも「選択」じゃないですか。英単語はまぁ当然に複数の意味を持っている、そのどれを選ぶか? どう歌詞の文脈を構成するか? っていう問題があって、それに対して関西弁バリバリの、ものすごく自分たちの生活とか心情に沿った意訳を行う。

 正直ね、原作ではほんのりBL感もありながら、かなり「ヤクザと少年の友情とも呼べない奇妙な関係」を描いてる。一方でこの映画版では「紅」っていう、いうなればラブソングの歌詞をこうやってピックアップすることで、BL感がかなり増してる
脚本か監督かはわからないけれど、この作品を映像化するにあたって「BL感を増そう!」みたいな決定がどこかで行われたと思うんですよね。そこで行われた「選択」、人が同じ時間に別の場所にはいられないように、作品で描けるものが「Aを選んだら、Bにはならない」みたいな面って間違いなくある
 つまりここで「選択することの不可逆性」が、聡実くんにも「映画」それ自体にも重ねられているのです。

 私たちは多かれ少なかれ、毎日なにかを選ぶ/選ばされる。
英語の歌詞翻訳だって、複数の解釈から「一意の答え」を選ばなきゃならない。作品を映像化するにあたって、どの部分を補強するか選ぶことで原作の複数ある読み取り方から「一意の答え」を選ばざる得ない。それと同じことが自分たちの生活の中でも大なり小なり起こっている。この映画評だってそうですよ、こうやって喋ることで取りこぼしてるものや、語りきれないものは当然ある。それがわかった上で「これが私の答えだ!」って提示しているのだから。
 そういったどうしようもない暴力性のなかで、私たちは生きてるわけじゃあないですか。そういったことを「カラオケ大会」「声変わり」「翻訳」「合唱コンクール」「映画それ自体」「作品を見た”私の”感想」という幾つものスケールと表現で突きつけてくる。
そういった暴力によって翻弄されながらも、それでもなお自分で「選択していく」聡実くんの姿を見せていくから、この最後に彼が「カラオケ行こ!」と下した選択が胸を打つんですよね。ひとつしか選べないなかで「それ」を選ぶんだ! って。

 でもちょっと怖いのが、凶児って人たらしがめちゃくちゃ上手いっていうか。「他人をコントロールするためにする感情の押し引き」が巧妙すぎて……作品自体が暴力性を取り扱ってことも手伝って、凶児にすごい好感を持ってしまうんですよね。だけどこれってヤクザが他人を支配するときの、まぁ常套手段であるわけで。これを見ながら凶児を好きになってる自分に気づいて「ヤクザって怖ぇー!」ってなりました。

 さて、せっかくなので今日はこの曲でお別れしましょうか。それでは聞いてください。

「紅」だぁぁぁああああぁぁあぁあッッ!!!

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 次回は『ゴールデンカムイ』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの13分ぐらいからです。


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