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一週遅れの映画評:『クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』親離れ、あるいは支配と庇護について。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記』です。

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 先に総評みたいのをしてしまうと、「悪くはない、が良くもない。特に最終盤に問題があり、それはそこまで作品が語っていたテーマと相反するからである」になります。

 ざっくりとストーリーを話すと、世界的エンターテイメント・プロデューサーであるバブル・オドロキー氏が発表したのは、本物の生きている恐竜と触れ合えるジェノスアイランドというアミューズメント施設であった。その夢のような場所はオープン初日から大盛況で、すでに予約は2年先まで埋まっているほど。
しかしあいちゃんのコネでジェノスアイランドの特別招待券を手にしたしんのすけたちは、パークの中で様々な恐竜たちと出会う。本物の恐竜に大はしゃぎするしんのすけたちだったが、チラチラとわずかな違和感が顔を覗かせる。
 一方、飼い犬であるシロが一匹で土手を散歩していたところで、自分と同じくらいのサイズなイグアナ(?)と出会う。傷つき腹を空かせたイグアナ(?)は紆余曲折あったものの、野原家で飼われることになり「ナナ」と名付けられる。新しい家族として、特にシロとの友情を育みながら一緒に過ごしているナナ。だがそのナナには、そしてジェノスアイランドには大きな秘密があったのだ……といった感じなのね。

 で、躊躇なくネタバレしていくと、まず「生きている恐竜」ってのが嘘で、すべてロボットなんですよね。いやそもそも「生きている」と誤認させれるロボット作れる時点でめちゃくちゃ凄いから商売としてはそれで十分な気もするんだけどw じゃあなんてバブル・オドロキーはそんな嘘をついていたかっていうと、過去に「次は生きた恐竜をお目にかけよう!」って言っちゃったからなんですよ。
つまり彼は自分の承認欲求に振り回されて、かなりの無茶を繰り広げているのね。それに付き合わさせられているのが子供たちで。娘は恐竜ロボットの開発に関わっていて、このジェノスアイランドで使われているものはほとんどが娘の手によるものなの。一方で息子は、恐竜の化石とかから実際に「生きた恐竜」を復元させようとしている。まぁ結局は恐竜ロボに頼らないといけなくなってるから、その研究自体はうまくいかなかったんだけど、1体だけ生きた恐竜を作り上げることができた。それが野原家で飼われることになったナナで。

 なんやかんやあってバブル・オドロキーが嘘をついていたことが世間にバレ、彼は暴走をはじめる。具体的には恐竜ロボを使ってナナを取り戻そうとし、街を破壊していく。そこには自分の展開するエンターテイメントを「黙って受け入れろ」みたいな、消費者に対して支配的な態度があるのね。
それって彼が持つ傲慢さではあるけど、私にしてみれば「誰かを楽しませよう」ってある程度の傲慢さが必要だと思うんですよ。どっかで「これが面白いはずだ! 喰らえ!」って態度でいないと、誰かに作品を見せることなんて出来ないわけで。
 ただバブル・オドロキーはさっきも言ったように承認欲求が先行しすぎたせいで追い詰められてしまい、本来ならそれを止めれる立場にいた子供たちを支配することでむしろ加担させてしまった。という問題がある。
だから作品としてこの設定から出てくるテーマって「親離れ」になるわけですよ

 バブル・オドロキーの息子と娘は親の支配から離れて、自分のしたいこと/やりたいことを目指すべきだ。その変遷を描いていくわけなんだけど、ここにもう一捻り加わるのが「ナナ」の存在で。
息子にとって自分が生み出したナナって擬似的な子供なわけじゃない。これは野原家においてナナがしんのすけではなくシロともっとも深い友情を育んでいることからもうかがい知れる部分でもあって、ヒロシ/ミサエという両親がいてその子供としてしんのすけ/ひまわりがいてそこからシロ/ナナがいるってレイヤーを野原家は持っている。それと同じようにバブル・オドロキー-息子-ナナという構造があるわけ。
 だからこの息子がナナを回収しようとすることは、ナナを生み出した人間として妥当性はある。だけどその一方で彼が「親離れ」を望むのなら、ナナに対してもその自由を認めなくてはいけない
この部分ってすごく良いと思うんですよ。キッズ向け作品として、やっぱりここでは「子供」の活躍が描かれる。すごく危険な状況に対面するしんのすけたちを、視聴者である子供たちは手に汗して見ている。で、映画館に子供だけで来ている可能性って低くて、当然親も付き添っているわけですよね。その中でバブル・オドロキーの息子は「親離れ」を目指しながら、同時にナナの「親離れ」とも向き合わなくちゃならない
 このジレンマ親が子を手元に置いておきたいのは、支配であり同時に保護であるという状況を見せていくのはちゃんと刺さる部分だと思うんですよね。その上で、いうてしんのすけはまだ幼稚園児だから「親離れ」なんて随分と先の話になる。だから劇場版という作品で、その役割をゲストキャラに委託して描くことに意味はあるし、だからこそ「いまはまだここにいるこの子もいつか」っていうことをしんのすけに/あるいは視聴者に思わせることができる
 プリキュアオールスターズの、どれだっけ『DX3』だったけな? 過保護な親の支配を否定する様を描いて、一緒に劇場へやってきた親をブン殴ってたのがあったんだけど……正直今回の『クレしん』映画は、息子が親離れを決意するシーンでミサエの取ってつけたようなセリフが(なんというか「あぁ、ここを名言にしたいのね」感が満載で)出てくることで、そこまで攻撃的じゃない、悪い意味で「丸い」ところに落ちついちゃったのは残念なところ。

 ただそれよりも問題なのは、最終盤でバブル・オドロキーの操っていた恐竜ロボが全滅し事態は解決するんですが、その余波で巨大なビルが倒れてしんのすけがその下敷きになりそうになる。それをナナが身を挺して助けるんだけど、代わりにナナはそのことで命を落としてしまうんですね。
ここをさ「急にキャラの死でお涙頂戴やりやがって」と怒る気持ちはわかるんですよ。でも、まぁ映画として後々に残る設定は使えないからどうにかしてナナを退場させなくてはいけない。さらに「親離れ」を扱う以上、バブル・オドロキーの息子がナナを回収する展開もできない。だからここでナナが死ぬのは別に「急に」では無いんですよね。
 じゃあなんで腹が立つかっていうと
「無理やりお涙頂戴で〆た」ことじゃあなくて、「親離れ」したことで庇護から外れてしまったことが「死」に直結しているからなの。ここまで親離れを肯定的に描いていたにも関わらず、そのことによって「死」が降り掛かってきて終わるというのは作品のテーマと真っ向からブツかってるんじゃない? だからここでナナが庇護の対象でなくなり、自分の意志で行動した結果が「死」というのは、ちゃぶ台をひっくり返すように「親離れの否定」となってしまう。ここまで見てきた話はなんだったんだ! という苛立ちが根本にあると思うんです。

 ということで最初に述べた総評「悪くはない、が良くもない。特に最終盤に問題があり、それはそこまで作品が語っていたテーマと相反するからである」になるわけです。
 なんかなー、もうちょっと何とかならんかったのかという感じが残る。ちょっとしたボタンの掛け違いというか、全体としてやろうとした部分は本当に良いとは思うだけに一層の残念さがあったかな。

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 次回は『KING OF PRISM Dramatic PRISM.1』評を予定しております。ええ、やってやります。やってやりますよ!

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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