見出し画像

一週遅れの映画評:『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』お葬式ではなく、卒業式として。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 はい、エヴァよシンエヴァ。エバー言うてね。いやこれどっからいこうかな……。
 
 そもそもね、そもそもの話。私は「現実に帰れ」系の物語ってすっげーバカだと思っていて……それは「言われんでも現実におるやろがい!」ってことで、いくらフィクションに耽溺してようともかなりの人は明日も仕事とか学校があったり、ニートとか引きこもりでも否応なく「明日」は勝手にやってきて焦燥感に苛まれたりするわけじゃない?
 いやそりゃ作ってる側からしたらその作品にハマってアクセスしてるときのオタクしか知らん、というか観察できないだろうから「現実に帰れ!」って思うんだろうけどさ、いやこっちはそれ以外の時間は嫌でも、つーか嫌だけど現実におるっちゅうねん!って話でさ。結局のところ私たちはどうしようもなく現実にしか生きていかないわけで、そこで帰れって言われても「やだよ帰りたくねぇよ、ていうかまず帰らずに済む方法を教えてくれよ」って思っちゃうんですよ。
 
 いや本当は広義の虚構に現実は包含されてる……ってのが私の感覚としては一番近いのだけど、まぁそれをいま言うと話がブレるからいったん置いといて。
 
 えっと、それで『シンエヴァ』はどうかって言うと。私はめちゃくちゃ良かったんですよ。
 というのもね、この話って「現実と虚構は相互幇助の関係にある」というのを肯定しようとしているわけですよ。
 
 私はあの娘、えーと名前わからんな。ヴィレのピンク髪の人、あの娘が言った
「明日生きることだけ考えよう」
 がめちゃくちゃクリティカルな発言だと思ったのね。
 
 まずゲンドウ自体は現実と虚構を等価に信じれるのが人間で、だからそこに神殺しの可能性があると考えていた、けれどそれをゲンドウ自身が信じていない。だって本当に現実と虚構が等価なら唯を復活させる必要がないわけよ、唯って虚構を作り上げてそれを現実に失われたものの代替として機能させればいいだけで。だからその時点でゲンドウの目論見は破綻してる

 じゃあ現実が大事、っていうのも違っていて。それは第三村の在り方に顕著なんだけど、ニアサーが起こってとりあえず生き残った人たちがなんとか生き延びるための共同体を作って、ただ村の周囲は汚染されていてそこにヴィレが設置したアンチLシステムでなんとか生活可能圏を維持している。つまりアンチLシステムが稼働停止したらいきなり全部終わってしまうわけ。
 だから村の人たち、というかケンスケ視点としては「明日どうなるか分からないけど、今日を生きよう」があって、それはつまり第三村ていう「いま、ここ」つまり現実しかないわけです。
 
 でその第三村に居場所を見つけたレイは消滅するしかないし、そもそもその第三村を守るという意識で動いているアスカは言うなればその境界線つまり外側に軸足があって、でシンジは第三村から出て行くことを決断する。これはもう明確に「現実に生きているだけではダメ」っていう話であるわけよ。
 
 だから現実だけだと人は行き詰ってレイのように死ぬしかない、だから虚構との両輪で生きていくべきなんだけど、じゃあ圧倒的に強度ある現実と対等になれるほど虚構を信じ切れるのか?ってやっぱりそれは難しくて、あれだけガンギまったゲンドウでもそこを等価にすることができなかった。
 じゃあどうするの?ってなったときにカヲルはシンジに対して「君はリアリティのなかですでに立ち直っていたんだね」って言うわけよ。それはリアルつまり現実ではなく、リアリティ、いうなれば「現実”らしさ”」の中で立ち直ること。私たちはどうしても現実に生きていかないといけないし、どれだけそこから逃げようとしても時間は勝手に進むしお腹だって空く。そういうあられもなさに立ち向かっていかなくてはいけなくて、だからどうしたって虚構は現実の前で真っ正面から対抗できるほど強くはない。
 だから両輪になれるほど対等にはなれないけれど、補助輪にはなれる。現実の中で倒れそうなときにそれを支えてくれる補助輪として、現実とは違った方法で、アプローチで、ぐらついた姿勢を「立ち直らせて」くれるものとして、現実にリーチできるけど現実ではない「現実”らしさ”」という虚構がそこには確かにあることを肯定していく。
  
 最終決戦的な、生きて終われるかわからないような場面で「今を生きることだけ考える」とか「今日だけ死なないことを目標にする」とかってフィクションの展開はままあるじゃん、そこでさっき言った
「明日生きることだけ考えよう」
が効いてくると思うのね。

 「いま、ここ」からホンの一歩先の未来を思い描くこと、先のことを考えるってそこには想像力が絶対に必要で、それは小さいけれど確かに虚構の一端ではあるわけよ。「いま、ここ」という現実を乗り越えていくためのちっちゃな虚構、それは弱く儚いものだけど、それでも確実に現実を支えてくれる絶対に必要なものとしての虚構で。
 だから嫌が応にも現実に帰らなければならない、どれだけ耽溺し夢中になろうとも目の前の映像が虚構だと知りすぎるほどに理解している私にとって、それでもなお現実に帰らざる得ない悲惨さに対して「明日という想像力を、虚構を手放すな」という本当に本当に小さな、それでいてはっきりとした希望を手渡そうとしているように感じました。
 
 だから『シンエヴァ』を葬式とか成仏とかってのは違和感があって、死んで終わってしまう葬式とか、成仏して消えてしまうのではなく。確かにエヴァンゲリオンは終わる、終わるけども生き延びてしまった明日はやってくる、だからこれは「卒業式」って表現が私にはしっくりくるんですよ。
 辛かったりしんどかったり……なんか言葉のチョイスに学生時代の怨念が混じってるけど、そういうものが終わる、終わるけども別に明日は普通にやってくるし、それを避けることもできない。でも確実になんらかの「一区切り」がそこにある。そういう「卒業式」の感覚ですね。
 
 だから【エヴァ】っていうものが終わる。それでも私たちは生きていってしまうし、また別の虚構を楽しんだり夢中になったら文句をつけたり批評したり、あるいは自分で作っていく。
 そういった意味で【エヴァ】が終わったあとの新世紀を、ネオンジェネススを、ここから創める。そういう終わり方はすごく、すごくね、ひとつの大きな作品として、沢山の人間に影響を与えた与えてしまった作品の終わりとして、なんて真っ当で真摯で、そしてなんとしてでも小さくても希望を手渡そうとしているな、と思いました。
 
 私、元からエヴァに対しては距離を取っていた……というか距離をとっていた「つもり」だったのよ。でもそれって離れようとする相手の位置とか場所を知らないとできないことで、だから私はそうやってどこかでずっとエヴァンゲリオンって作品を意識していたのだなー、と。
 たぶんそういう間合いにいるからこそ、この感想なのだなとは思っています。そういう捻くれた態度だからこそ、最後くらいはまっすぐ刺されようと、そういう感傷に近い感慨がある。あります、いまの私のなかにはそういった感動がありますね。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『野球少女』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?