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一週遅れの映画評:『先生の白い嘘』決して、正しくはなれない。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『先生の白い噓』です。

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 なんか穏当な解決したように見せかけて、根本的な問題は残っていて。とはいえ別に人間は誰だって問題抱えて生きてんだから、いいちゃあ良いんだけど……だったら「これで良い方向に向かいましたね」みたいな演出はどうなんだ? というのが総括になります。
 
 ざっくりとあらすじを言うと、主人公は高校教師の女性で。ある日、生徒のひとりに「人妻と不倫している」って噂が流れる、それで生徒指導室に呼び出して話を聞くと、マジで不倫していた。だけど男子生徒は「いざホテルに入って、やっぱりこんなことはダメだ、怖いと思った」と告白しつつ、それでも相手の人妻に流されて関係を持ってしまったと言うのね。
それを聞いた主人公は「あなたがそんなこと無かったって言えば学校は助かるの」とか「男だから力づくで抵抗だってできたでしょ?」とか言うわけですよ。いやね、このシーンは女性のレイプ被害に対する心無い言動のミラーリングとしてめちゃくちゃ良くできていて、かなり凄いんですよね。
 それで主人公がなんでそんな対応をしてしまうかって言うと、彼女は親友の婚約者である男性と肉体関係にあるんです。それも最初はレイプからはじまって、だけどそれを誰にも言えず、逆らうこともできず犯され続けている。それだけじゃなくて、心では相手も行為も憎んでいるのに関わらず、肉体の方は快感を得てしまっている。そのギャップに苦しんでいることでミサンドリーと性嫌悪の合わせ技を発動させ、性被害を訴える男子生徒に酷いことを言ってしまっているんです。
 
 これがまぁ概ね話の導入部分なんですけど、まぁその主人公を犯してる男ってのがミソジニー全開で、しかも怯えてる女じゃないと興奮できないっていう大層なクソ野郎なんです。ということで作品としては「主人公のミサンドリーと性嫌悪が解消される」と「男のミソジニーと暴力の行方」が描かれていくわけなんですね。
 この作品には男性2人クソ男と男子生徒、それに女性2人主人公と親友でクソ男の婚約者って登場人物がいるわけですが、それぞれにざっくりと「男性側」では共通するものが、「女性側」で対称されるものが配置されているのね。
 
 人妻と不倫をしていた男子生徒は性的な関係を持つにあたって「怖い」と感じた。この女性に対して「怖い」と思うことがクソ男にも実は共通している。男子生徒の方はその経験によって不能になってしまうのだけど、さっきも言ったように男の方はミソジニーと暴力に走ってしまう。つまりは「恐怖」を前にして起こす反応って「怯えてすくんでしまう」ともうひとつ「対象を憎み排除しようとしてしまう」があるわけです。
 私は暴力に走れるかどうかって、単純な身体性能ってそれほど影響してないと考えていて。身体的にせよ精神的にせよ、暴力を振るうことにどれだけ躊躇しないか? が分水嶺だと思ってるんですね。それで男子生徒は現代の若者らしく「暴力ダメ絶対」が身についてるから怯えることになるし、男の方は躊躇なく暴力を振るえる適正があったわけですよ。
 
 一方で主人公は強姦されながらも肉体だけは快感を覚えてしまう、その相反する自分という存在に悩んでいる……だとちょっと表現が甘いな、引き裂かれてるんですよね。
だけど親友かつクソ男の婚約者は、自分の彼氏がクソ野郎だって気づいている。普段の言動行動に色濃くあらわれる女性蔑視も、主人公だけじゃなく恐らく他に浮気相手がいることも気づいている。それでも「このクソ野郎には私しかいないから」って理由で付き合いを続けて結婚しようとしてるんですよ。つまり主人公とは逆に「清濁併せ吞む」心構えで生きているわけです。

 そしてこの婚約者が妊娠することで事態は大きく動くんです。
主人公は自分の性器が嫌なのに感じてしまうことで「女の体はそういう混沌とした不気味なものだ」と思っていた、だけど親友の懐妊によって「だけど新しい命を育む、尊いものだ」と考えが変化する
 そこで自分を強姦するクソ野郎に対して自分のマンコを見せつけながらその不気味さと、それでも新しい命を宿す奇跡を語り、その上で「あんたはこれが怖いんだ。恐ろしいものに怯えて暴力を振るうことしかできないんだ」みたいに言い放つわけです。自分の中にある恐怖を突き付けられて激昂することしかできない男は主人公をボコボコに殴り、それでも自分のやってきたことの邪悪さに気づかされて自殺を試みるのね。
 で、首つりしようとした瞬間、臨月の婚約者がそこにやってくるわけよ。婚約者はクソ男を助けたあと「お前には死ぬことは許されない。私と子供のために生き続けろ。どこまでも自分勝手なお前だから自殺するんだ」って言い放つ。そこでブチ切れたことで婚約者は破水するのね。で、クソ男に「子供生まれるからタクシーを呼べ!早く!」ってスマホを投げつけるんだけど、そこで男が電話した先が警察で「僕は女性を強姦しました」って自首するのw
 赤ちゃんとか伴侶のことなんて一切考えず、自分の罪の意識にかられてまず電話するのが警察っている「コイツまじでどこまでも自分勝手な最悪人間じゃん!」って感じなんですよ。
だけど婚約者はそれでも刑務所に入った男に面会にいくわけ、さっきも言ったように「このクソ野郎には私しかいないから」という言葉を証明するかのように

 で、主人公はそういう生命の奇跡を感じることで「そういう可能性がある行為は素晴らしいものなのかもしれない」と考えを改め、性嫌悪が幾分は解消された形で映画は終わっていくんですね。ここで主人公は傷つけられたトラウマを乗り越えれるかもしれないことを示して、なんか良い雰囲気で〆られるの。
 
 だけどさぁ
ここには大きな問題があって、主人公は「赤ちゃんを宿すことができる性」について肯定できるようになったけど、それって裏を返せば「生殖ではないセックスが悪」って思想に陥ってるともいえるじゃない? それってめちゃくちゃ危険で、生殖以外の性行為を邪だとしてる一部宗教とかさ、あるいは同性愛とかを否定するまであと一歩どころか寸前なわけですよ。
 もっと言うとフェミニズムは「性の解放」つまり生殖以外のセックス、そこで悦びを感じることも女性の権利としてあるというのは凄く大事なイシューなのよ……まぁセックス・ポジティブ・フェミニズムっていう80年代にあったリベラル思想の流れに私は立ってるからそういう発言になんだけど(その反対にあるのがラディカル・フェミニズムね)。だから下手するとこの主人公は快楽目的の性を嫌悪したまま、生殖以外のセックスを認めない立場に立ちかねない。そういう危うさを抱えてしまっているように見えるんですね。
 やっぱり性嫌悪的な考えは残っていて、というか一部解放したことで自分は正しくなれた! って思い込んでしまうようなヤバさがここにはある。それが最初に言った「穏当な解決したように見せかけて、根本的な問題は残って」いる部分になるんです。
 
 そこをなんか良い感じの演出でまとめ上げてるから、この作品は結構な劇物だと思う。少し間違えば「女は生む機械」みたいなクソカス思考を助長しかねないマズさがあると、私は見ました。
 個人的には「全ての快楽は、一端あらゆる倫理から切り離されるべき善」と考えているので、そういった点でこの映画とは「面白かったことは面白かったけど、私とは立場が違いすぎるなぁ」という感じでした。いや、そういう相対化をちゃんと考えさせる、良い映画ではあったと思います。うん。

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 次回は『お母さんが一緒』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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