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一週遅れの映画評:『ゼロワン Others 仮面ライダーバルカン&バルキリー』ゼロワンの目指す「多様性」

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ゼロワン Others 仮面ライダーバルカン&バルキリー』です。

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 とりあえず『ゼロワン Others』としては3月にやった『滅亡迅雷』一週遅れの映画評:『ゼロワン Others 仮面ライダー滅亡迅雷』気持ち悪さと危険性の狭間で。)の続きではあるんだけど……なんというか「ギリギリ単体では楽しめない」設定になっていて。あの、これなら分割せずに90分映画一本でどうしてやらなかったの?っていう(『滅亡迅雷』が55分、『バルカン&バルキリー』が48分。説明が重なる部分を整理すれば十分まとまるでしょ?)。あの、これはもう私の好みの問題ではあるんだけど、映画の前後編とか3部作とか、あとアニメで分割2クールとかすっごい苦手でさ……間に空白挟まれるとどうしようもなく冷めちゃうから嫌なんだよねぇ。
 まぁ『仮面ライダー』だから我慢して見るけど。
 
 バルカン/不破諫とバルキリー/刃唯阿のストーリーとして相互幇助関係というか「互いに掬いきれないものを掬う」っていう部分が念頭におかれた話なのね、今回は。
 テレビ版では「どこにも属さないまま仮面ライダーとして平和を守る」ことを選んだ不破と、「組織に属して治安維持に尽力していく」刃っていう「正義の体現」の仕方についての違いが描かれたわけだけど、『バルカン&バルキリー』ではそこから先になにが待っているか?がテーマになってる。
 
 まず前作で明確に人類の敵となった滅亡迅雷.net。それによって世論は「ヒューマギア排斥」の方向へ向かいつつある。組織としてそのヒューマギアを倒し滅亡迅雷.netの暴走を止めなければならない刃なんだけど、「亡」っていうヒューマギアと深く関係していることで「はたして”心のある”ヒューマギアを殺すことは正しいのか?」って疑問を持つ。
 それで最終的には「生きてるものを救う、それが正義だ」って結論を出す。それは人間もヒューマギアも含めて、ってことなんだけど……これって正しいけど正しいだけ、っていうか「いくらでも恣意的になれるじゃん?」問題がついて回るわけ。
 例えばシンギュラリティ(『ゼロワン』世界における、ね。一般的にな意味とは違うからね)を迎えた「亡」はヒューマギアだけど「心」があるから救うべき生きてるものだ、同じように心を獲得したヒューマギアもだ。まぁここまでは大体OKだとして。
 じゃあまだシンギュラリティは迎えてないけど、これから心を得る可能性を持つヒューマギアは?テレビ版で登場した「アイちゃん」、つまり人の形はしてないけどヒューマギアに入っているAIと同等の存在は?あるいは天津垓も持っていた「さうざー」犬型のペットAIは?それとかもっと単純な、それこそSiriとかレベルのとても「心を獲得できる」とは思えないようなものなら?
 そういう感じで割と無限に「生きている」の判断を迫られるわけだし、それはどこかで必ず「ここからは生きてる、ここからは生きていない」ってラインを引かざるえない。それって結局、刃が抵抗したヒューマギア排斥と本質が変わらないというか「引くラインの位置」だけの違いになりかねない。掲げてるお題目は正しいけれど、なにも解決できていないって面もある。
 だから刃の立場って「大多数を救えても、個別の例外には対処できない」わけでしょ。
 
 いっぽうで不破は個人で活動しつつ、その方針は「正義じゃない」て自分で言うわけ。「俺は俺のやりたいようにやる」って。まぁこれって端的に危険思想ではあるわけじゃない。仮面ライダーっていう力を持った人間が「自分のやりたいようにやる」っていうのは……それこそ本作で敵として登場する滅亡迅雷.netも”一見”「やりたいようにやる」ようにしか見えないわけだし。
 それでも不破には「街の平和を守る」って大前提があるから、なんとか成立している。だからそこが刃との相互補完関係になっていて……刃の理念では「個別の例外には対処できない」のを、不破が「個人の判断」でカバーしていく。一方で不破という個人では賄えない大多数を、刃が「包括的な組織運営」としてざっくりと救う。そういう互いの欠損を補っているわけ。
 ただやっぱ不破には、「いつどこで道を踏み外すかわからない」危険性がある。
 
 けどね、けどこの『バルカン&バルキリー』ではその「道を踏み外せる」ことが必要になってくるのよ。
 
 そもそも滅亡迅雷.netが人類の敵になった経緯には、ヒューマギアのための仮面ライダーである滅亡迅雷の四人が少人数による統一された意思決定を求めて、それが暴走した結果なのね。それでも滅亡迅雷は本当のところ人間とヒューマギアの共存を願っている。でもこうやって暴走してしまったから自分で自分を止められない。
 だから誰かに止めて欲しい。そこで対ヒューマギア戦闘ができるA.I.M.Sの代表である刃に襲い掛かる、彼女が自分たちを殲滅して、この凶行に終止符を打ってくれることを望んで。
 
 たださっき言ったように刃の立場としては「生きている」滅亡迅雷.netを倒すことができない。そこで刃の標榜する正義から「道を踏み外せる」不破が、カタをつける。そういう展開になるわけですよ。
 
 ここで語られているのは「正義のバリエーション」で。結局何かひとつの答えだけでは、賄いきれない事態っていうのが絶対に生まれてしまう。大枠を設定することで漏れてしまうもの、個別で対処するには限界があること。それはもうどうしようもなくて、ただその「どうしようもなさ」はそれぞれに違う。
 複数の正義、場合によって矛盾すら起こす理念を組み合わせて調整すること、それはたぶん「多様性」って言葉によって成されようとされている理想の社会、その一端であるわけですよ。
 
 特定の「正しさ」に固執しない、というか「別の正しさ」を否定しないこと。人間とヒューマギアは違うけれど、その違いは「排他ではない」って話をやった『仮面ライダーゼロワン』の終着として「複数の正解を互いに認め、受け入れる」。人間だとかヒューマギアだとかって違いに左右されない結論を提示したのは、すごく良い延長線での結末だったかな?と思います。
 
 前作の『滅亡迅雷』で話した映画評で
 「マジョリティの意見は正しいとは言えない」「マイノリティだけでは意見が偏りかねない」「一人では社会を変えられない」って話じゃないですか
 としたけれど、この『バルカン&バルキリー』では
 「マジョリティの意見は正しい(刃/A.I.M.S)」「マイノリティの偏った答えも必要(滅亡迅雷)」「一人でしかできないことがある(不破)」っていう結論としてうまく反転させていて、きっちり未来への希望という導線を引いてる。いや良い仮面ライダー映画でしたよ……一本にまとまってればね!本当そこの瑕疵が私んなかではデカいんだ。残念。

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 次回は『シャン・チー』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの18分ぐらいからです。


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