一週遅れの映画評:『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』がんばってただろうがよ!!
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜』です。
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やってること自体は好きな作品ではあるんですよ。って入りからわかるように、それを台無しにしてる部分があるせいで「良かったです、面白かった」とは言えないんですよね……。
お話としては、宇宙からやってきた謎のパワーによってある男性としんのすけに超能力が宿るんですけど。そもそもその男性は日頃から鬱屈した思いを抱えていて、そこに不幸な出来事が重なってしまう。そうやって追い込まれたところに超能力を得てしまう、彼は暴走をはじめるのね。
街を破壊したり、幼稚園に立てこもったりしたのち、「こんな世の中めちゃくちゃにしてやる」って巨大な怪物になってしまう。それに野原一家と超能力を研究してるグループが対峙することになる。というのが大体のあらすじなんですけど。
いつも通りネタバレ全開でいきますが。この男性は幼少期からいじめられてきた上、両親が離婚している。しかも両親はそれぞれに新しいパートナーを得ての離婚だと描かれて、暗に彼がその状況で両親のどっちからも疎まれる存在になったことが示されているわけですよ。
で、そのいじめられている記憶にしんのすけが介入してくる。それぞれの「決定的にいじめが苛烈化するタイミング」で、本当なら彼ひとりしかいなくてどうにもならないところに、しんのすけがいることで事態が好転するとまではいかなくても、「最悪よりはずっとマシ」な結果になるのね。そのおかげで男性は抱えていた鬱屈とした気持ちを手離すことができるようになる。
実際に起こった出来事は、現実として何も変わっていないんですよ。彼の生きてきた人生は同じなんだけど、そこに記憶の改変みたいな形でしんのすけが関わることで「ありえたかもしれない世界」を提示している。
これってまぁ端的にフィクションが持ってる希望なわけじゃないですか。現実は何も変わっていない、だけどイメージの中で非実在のものに救われる(ここでは過去の記憶を改竄するしんのすけ)ことによって、現実の受け止め方が少しだけ変わって。それで救われることを描いている。
こういう話自体は私が好きなものではあるんです。まず虚構がひとりの人間を救える可能性として働くことを、わりとストレートに示しているのには好感が持てる。それでも現実が全部良くなることなんか無くて、ただそれと対面する精神の方にちょっとだけ影響を与えることしかできないよね。っていうフィクションが持つ限界にも自覚的な点も含めて、好きではあるの。
その中で一番良かったのは、その過去に介入する場面で男性がボコボコに殴られようとしているんですけど、そこにしんのすけが割り込んむことでマジの殴り合いに発展する。割とシャレになんない打撃の応酬になるんですよね。
それを外から見ることしかできない野原一家で、みさえは「やめて!」みたいなリアクションを取るんですが、ひろしは「……がんばれ!」って言う。あのですね、当然ですけど暴力はいかん、いかんですよ。それでも人にはどこかの場面でコブシを振り上げて、戦わなくてはいけなくなる。
当たり前の倫理とか常識とかが働かない辺境、それは往々にして「子どもたちしかいな路地裏」とかに潜んでいて。そこでは暴力でもってしか対抗できない空間が実際にはあるわけです。正いことが通用しない状況ってのがどうしても存在して、そこで人間は獣になって殴り合わなければならない。そうやってしか守れない「尊厳」がある。
そういったことを包み隠さず描いているのは、とても良い、とても良いと思うんです。
ただね。
この男性っていうのが30歳で非正規雇、数日まともにメシも食えてないっていうかなり苦しい生活なわけですよ。しかも悪人にもなりきれないっていうのが……えっとね、幼稚園に立てこもったとき、みどり先生が犯人(この男性ね)の気をそらすため「ケツだけ星人」をやる、って場面があるんですよ。まぁこれってレイプシーンの代わりじゃあないですか。
だけどこの男性、ケツ振って近づいてくる相手にドン引きしちゃう。めちゃくちゃな超能力を使えるようになっても、女ひとりを犯すことができない性根の弱さ(これを「善良さ」とは言えないと思うのね)がある。
まぁそういう人間で。それで彼に降りかかった不幸っていうのが、推している地下アイドルがいきなり結婚発表からの引退して。それで落ち込んでるところに、なぜか強盗事件の容疑者と容姿格好が同じで警察に追われてしまうっていうものなんですよ。
そんな彼に対して、ひろしは「君もまだ若いんだ。それに誰かのためだと思えば、人はずっと強くなれる。だからがんばれ」とか言うんですよ。
そもそも野原ひろしが30歳のときって「正社員、6歳年下の妻がいる、しんのすけが生まれたばかり」っていう状況で、「非正規雇用、ガチ恋してたアイドルが結婚、今日のメシにも困ってる」男性と正直なところ天と地ぐらい差があって、そこにしたり顔で説教する醜悪さってのがまずあるんですけど。
いや、そもそもコイツ、がんばってるじゃねぇか。がんばってただろうがよ。まともに収入も得られないつらい仕事しかなくて、それでも自分の好きなもののために働いて。決して正解を選んでたわけじゃあないけど、コイツはコイツなりにがんばってたじゃない。それでもダメだった結果がいまで、そこに「がんばれ」って言うのはかなり酷い。
そういうキャラクター面としての部分もあれだけど、脚本としての問題がここにはあって。さっき言ったように「フィクションが人間を救う(かもしれない)」ってことの肯定があるわけですけど、そういった意味でいうと地下アイドルっていうフィクションのためにコイツはがんばれていたわけ。つまりはある程度、つらい生活を救ってくれる存在としてのフィクションが最初はあった。
だけどそれを失うことで、コイツは暴走してしまうわけですよ。それって作品の根幹を初手から否定してることになる、それが引いては「誰かのためならがんばれる」って話に対して「でもその誰かに裏切られたら?」っていうクリティカルな問題を、もう突きつけているはずなのに、そこがまったく解消されていない。
だから最後のひろしによる説教がまりっきり空転しているわけなんですわ。なにも成立してねぇじゃないか、こんなもん。
それにもう一つの「誤認逮捕されそうになる」は完全に社会の問題で、コイツにはどうしようもなくない? この作品にはネガティブなパワーを使って世界を転覆させようとする人物が出てくるんですけど、この作品が見せた世界。別に正しくはないけど彼なりにがんばっていた男が、裏切られ、社会の間違いによって押しつぶされそうなっているっていうのを見せられたとき「いったんこの社会を崩壊させよう」って主張が、むしろ正しいのでは……? って感じになっちゃうんですよ。
いやもう、良いところはあるんだけど、作品全体がその「良いところ」を自らブッ壊していて、はっきり申し上げてダメだと思いますね。これは。
大根仁の作品、私は結構好きなのが多いんですよ。例えばこの作品でも「倫理とかから外れた場所にある、暴力の必要性」を描くところとかは、すごく大根仁ぽくて良いと思うし、根底にはフィクションへの信頼があると思うんです。だけどときどきびっくりするぐらい「社会に追いやられてるオタク」というか、さっきの暴力性を出せる良さと直結するんだけど「情けない弱さへの無理解」みたいのが顔を出していて。
今回はそれがすごく悪い形で表出していて、扱いが苦手な要素を中心に据えた作品を作ってしてしまったな……という感じでした。具体的に比較するなら、大根仁の作風/資質と合っていた『バクマン』あたりと比べて観ればわかりやすいんじゃないかなぁ。
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次回は『バービー』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。