見出し画像

「自己反省を持つ人にあっては『知ることは超えることである』ということを信じたい。」 一般大学生の備忘録

皆もすなるNoteといふものを、一般大学生もしてみむとてするなり。

 記事のタイトルはみすず書房から出版された、V.E.フランクルの著作『夜と霧』新装版の出版社の序に出てくる、私の大好きな一節である。このタイトルを採用したのは、自分の思考を文字に起こして保存することでいつか反省し、現在私が抱えている生きづらさを解決したいという願いからnoteを始めたためだ。

 このnoteはいわゆる、インプットもアウトプットも足りない自分への戒めであり、泡沫の思考の記録であり、生きづらさを抱えた自分への鎮魂歌であり、話し相手のいないボッチ大学生の独り言であり、保管が面倒になった日記をネット上に残すための備忘録である。そしていざという時に言葉を紡ぐための練習である。続くといいな

 文章を書く経験があまりなかったため、読みづらいと思う。自分以外の読者をほとんど意識していないことも読みづらい原因の一つだろう。しかし、幸か不幸かこの記事にたどり着いた人がいたら、文章の拙さは大目に見てほしい。(批判、もしくはおすすめの作品をコメントしてくださると喜びます。^_^

正論なだけでは不十分なのか

 私は幼少の頃から中学卒業くらいまで、「いくら正論を言っても、伝え方がだめだと損するよ。」と母親から言われ続けた。やっとのことで、最近その言葉の真意を掴めた気がするので、初カキコ記念に残しておこう。

 結論としては、「いくら合理的な発言をしても、それを伝える相手を、意見の異なる一人の他者、として尊重していなければ、その態度に問題がある。」である。
 自分の知識や発想を疑わず、「合理的な判断を下せているはずだ」と過信することは大変危険で、正論を言えているかどうかもじっくりと考える必要があるが、一旦置いておこう。

 議論において大切なことは相手に勝つことであるという誤解や、相手の知識不足を教養がないとして非難することが散見される。私がこの二つを良くないと判断するのは、今出ている発言以上に優れた意見の発生を妨げるから、という一点である。
 議論において意見が衝突するとき、そこには両者ともが想像もしなかった新たな発想が生まれる可能性を秘められている。対話を通してお互いが大切にしていることを理解できたり、自身の主張の反省から自身の大切にしていることが浮き出たりするしれない。
 確かに、倫理的観点などから一方の主張を通してはいけないという状況があるかもしれない。その場合も相手のどこが許されない主張なのか考え、自身の主張の妥当性を再検討するためには、相手の存在が必要であることを思い出すべきである。真理とは、常に批判に晒され、その妥当性が確かめられている時のみ真理たり得るからである。過度に敵対視して相手が発言をやめたり、相手が一部正しいことを発言しても受け入れづらくなるといった状況はよろしくない。
 また、相手のある知識を持たなかったという一点のみで、教養がないと一蹴することも得策ではない。自分とは違う部門で知識を持っているであろうし、不足していた知識を伝えることで優れた思考を始める可能性もあるからだ。(その知識がどの程度普遍的なのかを考える必要があるし、たまたまある知識を持たなかっただけで他者を自分の下に置く人に、はたして教養があるといえるのか。教養とは何を指すのか。)

 上記のように、さらなる議論を促進するうえで、話し相手を敵対視することは損でしかない。表現の自由を守るためには、お互いが尊重されうる一人格であると考える方が都合がよいし、道徳的にもきっと良い。

反省

 あまり論理的に文章を書けていない気がする。難しい。もしここまで読んだ奇特な読者がいれば、コメントで批判などをしてくださるとうれしい。
 私は自分の考えが相対化され、意見が変わるかもしれないし変わらないかもしれないという状況が好きだ。私はそんな人間なので、最近は哲学対話が気になっている。別の機会に哲学対話について書けるといいな。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?