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【南海トラフ巨大地震】が現実化する?四国で起きた震度6弱から読み取れる可能性とは。

【南海トラフ巨大地震】が現実化する?四国で起きた震度6弱から読み取れる可能性とは。

南海トラフ巨大地震を知っていますか?随分と前から噂されていたもので、今後日本で起きる可能性の高い地震のことです。なんと2024年4月17日深夜に愛媛県、高知県で発生した震度6弱の地震は、南海トラフ巨大地震の想定震源域で起きたのです。今回は、最近になって現実味を帯びてきた巨大地震について記載していきます。ぜひご覧ください。


【南海トラフ巨大地震って?】

駿河湾から遠州灘(えんしゅうなだ)、熊野灘(くまのなだ)、紀伊半島の南側の海域及び土佐湾を経て日向灘沖(ひゅうがなだおき)までのフィリピン海プレート及び、ユーラシアプレートが接する海底の溝状の地形を形成する区域を「南海トラフ」と言います。

( ^ω^)・・・

難しい名前ばかりなので、画像も拝借しました。だいたいこの辺りだと覚えておいてください。

https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/nteq/nteq.html

記述によると、この南海トラフ沿いのプレート境界では、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に、一年辺り数センチの速度で沈み込んでいるそうです。その際にプレートの境界が強く固着して、ユーラシアプレートの地下に引きずり込まれ、歪が蓄積されるのです。このせいで陸側のプレートが引きずり込みに耐えられなくなり、限界に達して跳ね上がる事で発生する地震が「南海トラフ地震」と呼ばれる大地震です。この地震は上記の状態が繰り返されるため、南海トラフ地震は繰り返し発生すると言われています。

南海トラフ地震の過去事例:

過去の事例を見てみると、発生過程に多様性があることが分かるそう。1707年に起きた宝永地震(ほうえいじしん)。この地震では駿河湾から四国沖の広い領域で同時に地震が発生したり、マグニチュード8クラスの大規模地震が隣接する領域で時間差を置いて発生したそうです。

さらに、隣接する領域で地震が続発した事例では、1854年安政東海地震(あんせいとうかいじしん)。江戸時代後期の嘉永(かえい)7年11月4日(1854年12月23日)午前9時〜10時頃に発生した東海地震があります。この地震が発生した32時間後に安政南海地震が発生。1944年昭和東南海地震の際には、二年後に昭和南海地震が発生するなど、時間差にも幅があることが知られているそうです。

南海トラフ地震は、おおむね100年~150年間隔で繰り返し発生していて前回の南海トラフ地震が発生してから70年以上が経過した現在では、次の南海トラフ地震の切迫性が高まってきているのです。

過去に起きた南海トラフ地震をいくつか振り返ってみます。

【江戸時代1707年10月28日『宝永地震』】

今から300年前に起きた大地震、「宝永地震」。なんとマグニチュード8.6と推定されているそうです。南海トラフの大規模地震系列の中でも、各地の被害の様子がある程度定量的に判る近世以降で、最大のものが宝永地震なのです。東北地方太平洋沖地震の発生までは、歴史上規模が推定可能な地震の中で日本最大の地震でもありました。

※画像はイメージです

宝永地震による被害は、ほとんどが津波によって引き起こされ、大阪だけでなく広く瀬戸内海沿岸各地で津波によって、塩田や倉庫が浸水して被害が生じたそうです。津波の被害が確認できる最も遠い地点は長崎で、唐人屋敷(とうじんやしき:中国人の居留地)に居た中国人の商人は、標高が低いところにある倉庫の商品が塩水に浸かるため、夜にも関わらず「屋敷から倉庫へ行きたい」と言い、長崎奉行と揉めたのだとか。

宝永地震から49日後には、富士山の噴火活動が始まってしまい宝永火口を形成した側噴火(そくふんか)によって、大量の火山灰が主に東側に飛来したのだそう。倒壊家屋は60,000棟以上で、死者20,000人。津波標高は12.1m。想像しただけでも、恐ろしい被害ですよね。

【幕末1854年11月4日安政『東海地震』『南海地震』】

次に、巨大地震が続けざまに起きた事例です。幕末嘉永7年11月4日の午前9時頃、東海・熊野海岸沖を震源として起きた地震が『安政東海地震』です。そして約31時間後の翌日11月5日の午後4時頃に、紀伊水道・四国南方沖の海域を震源として起きた安政南海地震については、非常に広範囲に古文書、石碑文、口頭伝承などの記録が残っています。それほどの大災害だったということですね。これらの記録の中には、当時の人々が命がけで危機を切り抜けた体験談が、生々しく語られている事例が多いようです。

当時の政治的な有力者や豪商、漁業有力者などのいた場所では災害にあった自分の集落や町の人に対しての情景が、事細かく描写されているそう。このおかげで、これらの災害に遭遇した人間の行動や、復旧活動をよく知ることができる。その中には現代の私たちが教訓とすべき事例が数多く含まれているのです。

今後も同じことが起きるのではないか」と予想した先祖たちは、「災害教訓」として語り継ぎ、未来に生きる子孫たちが同じ過ちを繰り返さないように努めました。「子孫たちよ、私たちと同じ過ちを繰り返すな」という情念を吐露した文章もあるそうだ。ただ、テレビの普及によって先人から伝えられた昔語りが、家族へと語り継がれることが少なくなったのだとか。テレビやネットの普及は便利なのだが、それ相応に失うものがあるということですね。

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【地震津波と平家物語?】

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」

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日本において大きな自然災害を経験した時、それを後世の人に教訓として意識的に伝えるという行為、日本人はいつから始めたのでしょうか。実は、「津波の時には高いところへ避難せよ」という教訓を一早く記録した文献は、意外な事に「平家物語」なんです。「平家物語って恋愛の話じゃなかったの?」って思う方もいるかもしれませんが、当時の人々からしたら「平家物語」は、流行りに流行った小説のようなものだったのです。新刊が出たらこぞって手に入れたがるほどの文献。だからこそ、当時の人々に情報が伝わりやすかったのでしょう。

平家物語の最後の方、平家の滅亡が記された直後文治元年(1185年)7月9日に、京都、大津、奈良の諸寺の建物に被害を及ぼした大きな地震がありました。「長門本・平家物語」によると、「近国遠国もまたかくのごとし、山は崩れて河を埋み、海かたぶきて浜をひたし、岩われて谷に転び入り、洪水漲(みな)り来たらば、をかにあがりてなどかたすからざるべき」と述べられています。当時「津波」という言葉がなかったため「海かたぶきて浜をひたし」と表現されているのです。津波が浜へ襲来した様子を表しています。

「洪水漲(みな)り来たらば、をかにあがりてなどかたすからざるべき」という文章は、「もし津波によ って海水が満ちてきたら、丘に上がらずしてどうやって助かるのだ?津波の時 は当然、丘の高所にあがって避難すべきだ」という津波に対する非難教訓が述べられています。そして1185年の地震は、実は南海地震の一つであった可能性があると言われているのだとか。

ちなみに、理科年表では、康和南海地震(1099)の次の南海地震は、正平南海地震(1361) であって、この間262年もの間隔があいているのだそう。後世の南海地震が100年~150年ほどの間隔で起きているのに比べて間隔が開きすぎていて不自然。文治元年(1185年)の地震が南海地震であれば、この前が86年間隔、あとが176年間隔となって、「南海地震は 100年~150年間隔」という法則性に乗ってくるのだそうです。

【語り継がれる教訓】

明応7年(1498年)の東海地震による志摩国大津集落の高所移転についての記事で、気になる文面があったので紹介します。

志摩半島先端部海岸の鎧崎の基部に位置している小集落、鳥羽市国崎(くざき)。この集落は東海沖の海域に面しているため、歴代の東海地震の津波による被災を繰り返してきたのです。国崎は平安時代を通じて伊勢神宮の神戸として存続し続けたことが、文献的に証明されているそう。

平安時代の末期、国崎の集落は平野部の大津集落と、丘の上の国崎の二つの「神戸」、すなわち伊勢神宮の直轄領集落(君主や領主が自分の暮らしを賄うための地)に分離したのですが、この分離した「大津神戸」が、鎌倉時代を経て、南北朝時代にまで存続しました。この国崎から分離して平野部にあった大津が「明応東海地震」の津波によって壊滅してしまうのです。生存者たちは寺と共に国崎に合併移転し、もとの大津の市街地は放棄されたことが分かっています。

国崎は古来耕作地の面積が少なく、伊勢神宮への貢納物がアワビ、塩、鯛などの水産物だったようで、海からの産物の採取を主な産業とする集落でした。それなのにも関わらず、居住地の標高が高いのです。なぜ日々の生業の不便を忍んで生活してきたのでしょう。それには理由がありました。

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明応津波の被災を経験した大津の人々は、平野部に居住地を作ってしまうと、将来大きな津波が起きた際集落が壊滅してしまうという教訓を得ていたからです。この教訓を人々は500年あまりの年月、決して忘れてはいませんでした。1498年の明応地震津波の生存者たちは、不便を承知で高地居住して残った国崎の隣、「本神戸」の集落に合併。狭いながらもぎっしりと家を並べて住み始めたのです。寺もまた大津の故地を捨て、岩の台地の上に移転しました。こうして住人たちは日々の不便と引き換えに、津波から永遠の安全を得たのです。

このように国崎の高地移転は江戸時代二大津波に対しても、ともに大きな効果を発揮していました。二大津波は冒頭で紹介した津波のことですが、江戸時代のこれら二度の津波の経験が、さらに大津の低地へ住居を建ててはいけないという教訓への確信を固めさせたと言われています。

【津波を予言する人物が過去に何人もいた!?】

民衆の震災対応について不可解な点がいくつかありました。11月4日の安政東海地震の発生以降、市中の人々は相次ぐ余震や建物の倒壊を恐れて、大路や空き地などに仮小屋を構えて避難していました。そして11月5日の安政南海地震の発生以降は、多数の人々が打ち続く余震を恐れて、市中を縦横に廻る堀川上の船に乗って避難していたのです。その他にも何件も事前に避難できた例が確認できるのです。過去の経験からの教訓の大切さを物語っていますね。

こんな例があります。大阪市大正区のJR大正駅近く、安治川と木津川の合流付近に大正橋が掛かっているのですが、その橋のたもとに「大地震両川口津浪記(だいじしんりょうかわぐちつなみき)」と記してある石碑が立っています。安政南海地震の翌年、安政2年7月に幸町(さいわいちょう)五丁目船場によって建てられました。その文には、安政元年(1854)6月14日の伊賀上野地震による大阪の様子と、11月4日の安政東海地震の大阪での震度4程度の大きな揺れを感じ、多くの人が小舟に避難したことが書かれています。

当時、本震から二時間ほど経過した日暮れ頃、大津波が押し寄せて『安治川』『木津川』に山のような大波が入って来たそう。地震の避難で大勢の人が乗り込んだ多数の船が川の上流に押し流され、橋に激突し転覆。橋は落ち、後から流されてきた船が折り重なっていったと言います。なんと大阪全体で死者341人にもなりました。

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石碑に書かれた文はまだ続きがあり、「今より百四十八ケ年前、宝永八丁年十月四日の大地震の節も、小船に乗り津浪 にて溺死人多しとかや。年月へだては伝へ聞く人稀なる故、今亦所(いままたところ)かはらず夥しき(おびただ)人損し、いたましきこと限なし」と書かれています。

これを現代語訳するとすなわち、「148年前の宝永4年(1707)の南海地震でも、地震からの避難のために船に乗った人が大勢いて、津波で溺れ死んだ。長い年月がたったのでこの言い伝えを知る人が少なくなり、今またむざむざと同じように船に乗って同じ理由で死者を多く出すことになってしまった」と訳することができます。先人の残した教訓を生かすことができなくなった悔しさが滲みでていますね。

この後の石碑には、後世の人へ教訓を残す文章が続いています。

後年又はかりがたし。すべて大地震の節は津波起こらんことを兼ねて心得、必ず船に乗るべからず

つまり、「将来また同じように地震が起きるかもしれない。大地震の時はいつでも津波が起きる事をあらかじめ知っておき、決して船に乗ってはいけない」というのです。当時の大阪に住んでいた人々は、二度同じ間違いをしました。そこで当時の人々は孫後世に続く者たちに、「将来再びやってくるであろう地震の時は、また三度目の同じ間違いを繰り返すな」と強く戒めています。

また必ず大地震が起きると予知しているのですね。

さらに碑文には、「火の用心肝要なり」「川内滞船は水勢おだやかなる所をえらび繋ぎ変え、囲い船は素早く高いところへ移せ」と現代にも通用する地震津波の緊急対策が書かれている。

そして碑文の締めくくりは、「願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」と書かれています。要約すると、「この石碑の意義を理解してくれる人がいたら、この石碑の文字がいつまでも人々に読まれるように、毎年墨をいれてください」というのです。

未来を見据えたこのメッセージに驚きを隠せません。この教訓が生まれるまでの犠牲は多大な人数になってしまいましたが、教訓が生まれたからこそ、現代に至るまでの犠牲者の数が減ってきたと言われています。私たちの先祖は代々地震と津波という自然災害で大切な人や歴史を失ってきましたが、このような言い伝えを残すことで現代に生きる私たちが守られているのですね。

【言い伝えが力を失う現代】

上記の記事で安心したのも束の間。現代に向けて徐々にこの言い伝えが薄れていっているではありませんか。現代よりも前、インターネットが普及していないもっともっと前に、言い伝えが薄れたことがありました。その時にもまた多大な犠牲者を出してしまった事があったのです。それは現代でも言えるのではないでしょうか。

例えば、2011年3月11日に発生した「東日本大震災」。死者は二万人近くにも及び、観測史上最大とも言われた津波による被害がありました。福島県相馬では9.3m以上。また宮城県女川漁港で14.8mの津波痕跡も確認されているのです。大体建物の一階が3mくらいの高さですよ。今この記事を読んで下さっている方も一度天井を見てイメージしてみて下さい。ゾッとしませんか?

そしてなんと、陸地の斜面を駆け上がった津波の高さを表す「遡上高(そじょうこう)」は、全国津波合同調査グループによると、国内観測史上初最大となる40.5mが観測されたそうです。

大地震の後に津波が来るという言い伝えがしっかりと伝わっていれば、死者の数を大幅に減らせたのではと思うのです。ですが伝えきれなかった。

いや、言い伝えは伝わっていたはずだ。実際にみんなで声掛けをしてたじゃないか

こんな声もあるかと思います。ですが「言い伝えが伝わる」というのは、そういうことではないのです。みんなの心が一体となって、みんなが言い伝えを守り行動できてこそなのです。なぜ現代でそれが叶わないのか。皆さん薄々気付いているのではないでしょうか。

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そうです、ネットの普及ですね。インターネットの普及というのは人類にとって大きな進化であり、退化でもあると感じます。なぜそう思うのか。インターネットを見る人が増え、自分なりの考えが定着する人類が増えてきました。情報が少なかった昔は、情報が偏ることが多かったのですが、現代の場合情報が拡散してしまい、人類全体の情報の捉え方が錯綜してしまうということが起き始めました。そのため、行動に統一性が出なくなり、取り返しのつかない悲劇を繰り返してしまう原因となったのです。

大地震の後には必ず津波がくる。

この法則は、遥か昔から言い伝えられてきているのです。この法則を自分なりに解釈し避難を遅らせたり、「まだ大丈夫だろう」と勝手な考えで家から避難しないでいる。テレビの情報にばかり耳を傾けるようになってしまい、近所同士での情報の伝達がなくなった。沢山の負の要因から現代において「教訓」が完全に伝わらなくなったのでしょう。※私の個人的な考え含む。

【まとめ、感想】

と、ここまで南海トラフ巨大地震をテーマに過去の大地震についてまとめました。突然起きる大地震による被害は完全に防げるものではありません。こればかりは運命でしょう。ただ、過去の言い伝えを読み解くと100年~150年の感覚で大地震が来ている。そして最近になり地震が増えてきた。このことから南海トラフ地震の発生がまもなくだということは、分かると思います。

「いやいや、そんなのただの言い伝えでしょ」

このように思うのも結構ですが、実際に言い伝えとして今日まで残っているのです。人間の危機感を甘くみてはいけません。備えあれば患いなしということわざがあるように、いつなにが起きてもいいように備蓄や避難セット等をしっかりと準備しておきましょう。我が家でも避難セットを置いてありまして、消費期限が近付いている食品などは予行練習という体で家族で食べたりしています。

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今いる場所から引っ越すのは難しいかとは思いますが、なるべく海辺から離れたり、避難経路を確認しておく。車が渋滞しない道を調べておくなどの対策はとれるかと思います。大地震が再び起きてしまった時には、パニックにならずに高台へ逃げる事。先人が言うように、この対策が一番良いのだと感じます。家族がバラバラになってしまっても、家族みんなが高台で合流できるように高台での集合場所を決めておくといいでしょう。

大地震が発生してから津波が到達するまでの時間は、10分~15分。東日本大震災では、地震発生から10分以内に津波が到達したそうです。最も遠い地点で約1時間後。つまり、大地震が発生した場合、直ちに高台へ避難しなければいけないのです。迷っている暇はないようです。

海に近い場所で大地震が来た際に、机の下に隠れて頭を守るといった行為。現代においてそれが本当に正しいのでしょうか。会社にいるときに大地震が起きた場合、上司がいるから逃げずに上司の言うことを聞く。学校にいるときに先生の言う事を聞き、机の下に避難する。そんなことをしている内に、津波がすぐそこまでくるかもしれません。

自分の頭で考え、自分で判断し、自分の力で避難する。命を守る行動をするのです。いざという時に、あなたを守るのも、あなたの家族を守れるのもあなただけなのです。

ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。この記事を書こうと思ったきっかけは、出張中の地震でした。家族と離れていた時に地震が起き、しかもそこは海に近い場所だったのです。「ここで南海トラフ地震が起きた時に私はどうするのだろう」と強く思いました。南海トラフ地震がどのように起きて、現代で起きる可能性がどれくらい高いのかということを知りたかったのです。あなたもぜひ教訓を大切に、生きることに全力になって下さい。

では、ありがとうございました。もしお時間がございましたら下記の記事もご覧ください。


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