法廷でべレッタを8発。母が娘の仇を取る。語られる美談の裏には驚くべき真実があった。マリアンネ・バッハマイヤー『私的事件簿』
法廷でべレッタを8発。母が娘の仇を取った。真の正義とは?マリアンネ・バッハマイヤー
みなさんは、マリアンネ・バッハマイヤーという女性を知っていますか?
彼女は法廷で8発の銃弾を発砲しました。では、マリアンネはなぜ発砲したのでしょうか。
その理由に、あなたも衝撃を受けるはず。そして同時に、『正義とはなにか』について考えさせられると思います。
では、ご覧ください。
【マリアンネ・バッハマイヤー事件】
この事件は、1981年3月6日、西ドイツの法廷で被告が射サツされた事件です。これは前代未聞のことでした。
しかも射サツしたのは、被害者の母親。
コロされた『クラウス・グラボウスキー』は、少女に対する強制わいせつの常習犯でした。
私的制裁で、グラボウスキーをサツ害した後、マリアンネはすぐに裁判にかけられることになります。
マリアンネに課された系は『懲役6年』。
過失致シと武器の違法所持のみの有罪判決で、人一人コロしたのにも関わらず、異例の軽さでした。この判決は戦後ドイツで、最も衝撃的な判決になりました。
ですが、マリアンネは3年後仮釈放されています。
その後に、情状酌量により出所しました。
【マリアンネ・バッハマイヤー】
マリアンネは、1950年6月3日旧ナ◯スドイツの将校の娘として誕生しました。
ドイツ・ザルスタット(旧東プロイセン)で育ったマリアンネも、壮絶な人生を歩んだのです。
将校だった父は大の酒好き。近所のバーで、よく酒に溺れていたそうです。そんな夫の姿に愛想を尽かしたマリアンネの母は、離婚を決意しました。
マリアンネを連れて家を出た母は、すぐに別の男と出逢います。
母親は再婚したのですが、その相手、つまり継父《けいふ》とマリアンネは、仲が悪く喧嘩ばかりしていたそうです。殴られることもあったそう。
母親は、そんな関係の二人のうちマリアンネを責め、彼女を家から追い出しました。ヒステリックな母親には愛されず、アルコール依存症の父親とも離れ、継父《けいふ》には殴られるという、壮絶な10代を送るのです。
しかもマリアンネが9歳の時には、見知らぬ男からレ◯プされました。これが幼いマリアンネのトラウマとなってしまったのです。
その後も、16歳の時に付き合っていたボーイフレンドとの子どもを妊娠し出産。18歳では次女を出産しました。
(ちなみに2人の子どもは、出産直後に養子に出されています。年齢的に育てるのが難しかったのでしょう)
そして不幸なことに、次女出産直後、近所の男に強カンされてしまいます。マリアンネを強カンした男は、裁判でわずか1年半の判決が下されただけでした。
この事にショックを受けるマリアンネ。司法に対しての憤《いきどお》りを感じることなります。
【娘のアンナ】
1973年、23歳の時にマリアンネは三女アンナを出産。当時の西ドイツの都市『リューベック』でパブを経営しながら、シングルマザーとしてアンナを育てていました。彼女にとって3子目のアンナだけは、責任を持って育てることを決意したのです。
アンナは活発な娘で、近所の人たちと話したり、ペットと遊んだりをよくしていました。誰もがアンナのことを知っていたのです。当時アンナが住んでいたリューベック市では、後期ヒッピーシーンがあり、これがアンナの人生の背景でした。
アンナは成長し、幸せで自由な精神を持つ子どもとして知られ、マリアンネはアンナのことを大人として扱っていたそう。
そのためアンナは、幼い頃から多くのことで自立することを強要されていたといいます。マリアンネは利己的で、アンナの意思などを無視していた可能性もあるようです。
マリアンネはバーで働くことが社交の中心であり、同時にアンナはバーの中で育つことになりました。当時の常連客らは、アンナがよくベンチで眠っていたと話しています。あんな自身も決して暖かい家庭生活を送っていたわけではないのです。
マリアンネは、このことをなんとも思っていなかったわけではなく、知り合いの夫婦にアンナを里子に出す相談をしていたといいます。
1980年5月5日。
前日にマリアンネとアンナは口論になり、喧嘩をしていたそうです。このことから、アンナは学校に行くことを辞め、友人の家に行くことにしました。
ですが、もちろん友人は学校へ行っています。アンナは渋々、路上で遊んだり、人と話していたりしたそうです。
この日マリアンネは、彼女の乗っていた珍しい車についての地元新聞の取材がありました。
取材が終わり家に着くと、アンナが帰っていないことが発覚。彼女を探しに出たマリアンネでしたが、見つからず、その日の夜に警察へ行き行方不明届を提出。
次の日になっても、アンナが帰ってくることはありませんでした。
ですが、その日の午後、警察署にある女性が現れたのです。
【クラウス・グラボウスキー】
女性曰く、婚約者が少女をサツ害したと自白してきたと言うのです。その犯人が肉屋で働く『クラウス・グラボウスキー(当時35歳)』でした。
不幸なことに、マリアンネたちが住む家の近所には、グラボウスキーが住んでいました。
アンナとも面識があったグラボウスキー。事件前からアンナは、グラボウスキーと彼の飼う猫の話をしていたそう。
そんなこともあり、肉屋で働いていたグラボウスキーは、日頃からアンナのことが気になっていたそうです。
1980年5月5日朝、グラボウスキーは歩いていたアンナ(7歳)に声をかけます。
「おじさんの家で猫と遊ばないか?」
そう言われたアンナは、彼の家について行ってしまったのです。グラボウスキーは、自室のアパートにアンナを連れ込むと、数時間強カンした後、アンナが身に付けていたストッキングで、絞サツしました。
そして、グラボウスキーはアンナのシ体を縛ってダンボールに入れ、数時間自宅に放置したそうです。その後、自転車で向かった運河の側の土手に穴を掘り、埋めました。
グラボウスキーの婚約者は、午後遅くに仕事から帰ってきたのですが、明らかに彼の様子がおかしいと感じました。そのため警察に通報。
ですが警察がグラボウスキーの家に到着した時、彼の姿はありませんでした。彼は婚約者に対してメモを残して出ていったのですが、そこには『夜遅くに地元のバーであるツォルンで話す』とだけ書いてあったそう。
警察はバーに先回りし、グラボウスキーは到着直後に逮捕されました。
警察が彼を追求すると、アンナのサツ害を認め、アンナを町外れに埋めたと供述したそう。
ですがこの男、性的ギャク待は否定したのです。
グラボウスキーは、1973年に6歳の少女に性的ボウ行を加えようとしましたが、少女はなんとか逃走に成功。ですが、逃げている少女の首を背後から締めました。少女は大声で叫び、なんとか無事。その後グラボウスキーは、サツ人未遂罪で執行猶予付きの判決を受けました。
その2年後1975年には、2人の少女(9歳)をギャク待して受刑者になりました。 グラボウスキーは、弁護士によって精神障害を訴え、責任能力のなさを提示。
1976年、グラボウスキーは2人の少女を性的ギャク待したとして、精神治療施設で過すことになります。
その後、彼はリハビリの一環で去勢手術を受けることに同意し、なんと、それと引き換えに釈放されていました。
しかし、この去勢手術には問題がありました。
【去勢手術の失敗】
グラボウスキーが受けた去勢手術は、科学的去勢。この科学的去勢は数十年に渡って性犯罪に対する治療法として物議を醸してきました。
犯罪者は、男性のテストステロンを低下させる目的で、非ステロイド性エストロゲンである『スチルベストル』で治療されます。
性的衝動を抑えるために、抗精神病薬のベンペリドールが使用されることがありますが、これはテストステロンには影響しません。つまり、去勢とは異なり、科学的去勢は元に戻すことが出来てしまうのです。
この手順では、多くの疑問が生じました。例えば1978年、性学者のシグシュ教授は、「去勢は生殖を防ぐためにのみ効果があり、性欲や性犯罪を犯したいという願望を管理するためには効果がない」と述べたそう。
科学的去勢後に釈放されたグラボウスキーに、その後の治療や総合支援などはありませんでした。このせいでグラボウスキーの精神的状態は、変わることはなかったのです。
なんと、99%の患者が性衝動を失うとされていたのに、グラボウスキーは1%に入ってしまったそう。
釈放から2年後、グラボウスキーは泌尿器科を訪ね、去勢解除のためホルモン治療を受けたいと要求。
なぜこの意思が裁判所に通ったのかというと、グラボウスキーが身体的副作用を訴えたからだそう。彼にも婚約者がいるということ、家族を作りたいと訴えたこと、グラボウスキーが去勢治療が成功し、あたかも人生を好転させたように見せたからだそう。
1980年3月18日と4月25日、彼は『テストビロン』を注射され、自宅で服用するための錠剤を処方されました。薬を処方した医師は、グラボウスキーの過去のことを知らず、去勢後の身体的な観点からしか治療していないと認めたそうです。
サツ害当時、グラボウスキーは去勢前と同じレベルのテストステロン(男性ホルモン)を持っていたそうです。このように隠れて男性ホルモンをとることにより、1978年には勃起能力が回復していたのだとか。
【グラボウスキーの犯行】
グラボウスキーの供述としては、7歳のアンナがグラボウスキーを誘惑し身体を触らせ、そのことをマリアンネに言いつけると脅し、お金を要求したたそう。それを恐れたグラボウスキーは、アンナをサツ害したようです。
事件当時、アンナは椅子に座っていて、グラボウスキーの婚約者のストッキングでアンナの首を締めました。アンナは抵抗し、椅子から転げ落ちたそうですが、大人の男の力に敵うはずはなく、コロされたのです。
【事件後のマリアンネの怪しさ】
マリアンネ・バッハマイヤー(29歳)は、その夜娘アンナのサツ害について知らされました。ですが警察は、その時のマリアンネの反応がかなり怪しかったといいます。娘の話を警察から聞こうとせず、娘のいるシ体安置所に行くことも拒否したそうです。
現実を受け止めたくなかったからだとは思いますが、この辺りからグラボウスキーに復讐する気でいたのではないでしょうか。
マリアンネは、娘をサツ害したグラボウスキーをよく見るために、法廷では必ず最前列に座ったそうです。時には大声で、「なにか言え、この豚」などと怒鳴りつける場面もあったのだとか。
このような彼女の行動を見た傍聴者たちは、マリアンネが悲劇の母親を演じているかのようにも見えたそうです。
グラボウスキーは法廷で、アンナの最期の瞬間と、彼女がどのように亡くなったかを正確に答えると、その去り際にマリアンネの背後でこう言ったそうです。
「アンナの鼻からなにかが出る音が聞こえ、私は釘付けになった。そしてもう彼女の身体を見ていることに耐えられなくなった」
まさに猟奇的発言。
公判2日目、警察官のロザーはアンナがサツ害された現場の様子を語った。
「アンナのシ体は、アンナの小さな体は豚縛りにされていた」
この事実は、法廷に動揺を引き起こした。
【マリアンネが法廷で発砲】
1981年3月6日金曜日の朝。
クラウス・グラボウスキーの裁判の3日目はリューベックで、寒い雨の日だった。その瞬間は、開廷の5分前だったため、法廷にはあまり人がいなかったのです。
グラボウスキーは、通用口から中に案内され、入口に背を向ける形で座っていました。マリアンネは法廷に入ったのですが、時間が早く人が少なかったため、同行していた友人と廊下で待機することにしたのです。
マリアンネは、廊下に足を進めましたが、その場で急に振り返り、グラボウスキーが座っている場所に近付きました。
※下記から事件現場の画像です。血液がありますのでご注意下さい。
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