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【13回の転職の末に、僕が見た景色】

 俺は、この先どうなってゆくのだろう。
 このままアクセルを緩めなければ、死ねる。

 【追い込まれた青年】

 僕は、何度も転職を繰り返した結果、いい加減安定を求め、大手某バス運送会社に入社しました。
 これが僕の人生を変えるきっかけになります。

 バス会社に入社する前は、朝4時から精肉の解体や、コンビニで深夜アルバイト、パチンコ屋の店員や、ラーメン屋さんの店長候補として働いていたり、様々な職種を経験しました。
 その中でも一番楽しかったと言える仕事がありました。

 初めての転職をした後に入った飲食業界『バーテンダー』です。 

【転職の軌跡】


 高校3年生で子どもを授かり、一度バーテンダーを諦めていた僕は、家具屋の工場で働くことになります。
 家族を養うために、とにかくお金が必要だと思っていたのです。初手のその考え自体は間違えていなかったのでしょうが、稼げる額にも限界を感じていました。
 
 初めて勤めた会社。
 大人になると、もっとお金が貰えるものだと思っていました。
 けれど現実は違う。

 給料は23万円。
 ボーナスなし。
 月〜土勤務。
 日曜日休み。(たまに出勤)
 深夜勤務あり。
 勤務時間はまちまちでした。

 現実を突きつけられました。

『こんな日本で、自分の身を削らずにどうやって家族を養っていくんだ』

 絶望です。


 そんな僕は、19歳にして働く意味を考えさせられます。
 
『これだけ頑張っているのに、これしか稼げないなら、好きな仕事をしたほうが良い』

 僕は、もう一度バーテンダーを目指そうと決心しました。

 バーテンダーは、僕が小学6年生の頃から夢見ていた職業です。
 深夜、母に内緒で見ていたアニメの影響でした。次の日には母にシェイカーなどの道具を買ってもらい、練習の日々。
 高校3年生の時に、子どもを授かるまでは、有名なバーテンダーに弟子入りするんだと心に決めていました。
 そのため一切の就職活動もしていませんでした。社会を舐めてましたね。

【間違った充実感】

 家具工場で、上司に辞めると伝えるまではあっさりしていました。
 自分で決心した、そのままの勢いで伝えに行った記憶があります。どんどん疲弊してゆく自分に気付いていたからだと思います。 

 その時は『二週間後に辞めます』とだけ伝えました。

 きっとこんなにも辛い社会なら怒られるものだと思っていました。
 ただ、上司からの返答は、まったくの別ものでした。

『辞めたほうがいいよ。まだ若いんだから』

 僕は、驚きました。
 死物狂いで、毎日必死に働いていた上司がそんなことを言うなんて思ってもみなかったのです。
 
『では、この人はなんのために働いているんだろう』

 この問に辿り着くまでに、転職を13回も繰り返してしまったのです。

 今ならはっきり言えます。

【あの時の上司は、お金がほしかったんだ。俺がほしいものはお金じゃない。お金を生む仕組みなんだ】

 この事実に気付いた時には、バーテンダーも辞め、毎日朝から晩まで、バスを運転していました。
 睡眠時間はほぼなく、休みも寝てしまい、ないようなもの。
 マックスの給料で、手取り20万円。

 この時の僕には、妻、息子、娘がいましたが家族で過ごした記憶はほとんどありません。

 意味のない転職を繰り返し、お金だけを追い求めた結果、僕の心の扉は閉じていきました。
 片道一時間の道を、原動機付自転車で通勤。最後のほうでは、イヤホンをしているのに、なにも音楽は流さず、ぼーっと前だけを向いて運転していました。

 僕の心は限界でした。
 

【ある冬の帰り道】

 バス会社からの帰り道、気付くと、子どもの頃に住んでいた場所にいました。
 子どもの頃に遊んだ場所を、原動機付自転車でぐるぐると徘徊し、土手に辿り着きます。
 長い川沿いを走っていると、アクセルを握る手が徐々に強くなってきたのです。
 緩める気もおきず、土手のカーブが見えてきました。

 ハンドルを少しだけ右に切れば家に帰れる。
 
 ハンドルを切らなければ、土手から落ちて死ぬ。

 この時、自分で決めることは出来ませんでした。思考が停止してしまっていたのです。

 土手のカーブぎりぎりに差し掛かかった時、脳裏に妻と息子と娘の顔が浮かびました。
 僕は瞬時にハンドルを右に切り、なんとか崖から落ちずに帰ることができました。
 この時に思考停止していた僕ですが、ギリギリの所で、生を選ばせてくれた家族のために、意地でも死なないと心に決心しました。

【少しずつ始められることから】

 僕は次の日から、自分の出来ることを探しました。
 根っこからです。

 例えばゲーム。
 映画を観ること。
 文章が少し書けること。
 芸術が好きなこと。

 ざっくり考え、全てでお金になる方法を調べました。ただ、ここで気付かされたのは、お金を得るためには、お金が必要だと言うこと。

 お金がないからこれだけ頑張っているのに、お金が必要だなんて。
 
 現実は、本当に苦しいものだと再実感した23歳。八方塞がりです。

 さて、ここで僕がどうしたか。

 FXの勉強を、始めました。
 理由は、自分の持っている少ないお金を、大金へと変えられるチャンスがあると知ったからです。
 少ない、とても少ない隙間時間を使い、とにかく情報を頭に入れました。
 どうにかして、この地獄から這い上がらねばいけないとゆうことで、とにかく勉強しました。

 結果は、【マイナス4万円】

 かろうじて軽症で済みましたが、死ぬ気で戦ったのに、結果に反映されなかったのです。

 FXなんてギャンブルだ。
 まさに、そう思いました。

 ですが、FXを勉強することを辞めませんでした。
 なぜなら、4万円負けたなら、4万円勝てると思ったからです。

 ただ、お金のないうちにチャレンジするのはギャンブルだ。
 これは間違いないと思います。

 だからといって、お金がないから、やらないも間違いです。
 FX をやらなければ、知らなかったことが沢山あります。

 経済のことだったり、人の心理ことだったり。お金の動き方だったり、お金がいったいどんなものをなのかだったり。

 人は失敗しなければ学ばないとゆうのは、事実なのだと確信しました。

 これを気にバス会社をなんとか辞めることが出来たのです。
 (バス会社の辛い現実については過去記事にまとめてありますので、もしよろしければ御覧下さい→【バス会社養成制度の闇を暴露】)

 それからの僕はチャレンジの日々です。
 トライアンドエラー。トライアンドエラー。トライアンドエラー。トライアンドエラー。

 何度も何度も何度も繰り返し、失敗し。

 何度も何度も何度も繰り返し、失敗。

 沢山の副業にもチャレンジしましたがことごとく失敗。

 唯一成果が出て、得意だと思っていた文章でも報酬は70円。

 吐きそうでした。

 駄目だと思いました。

 半ば諦め、動画サイトで勉強しているときでした。
 自分より若い子たちが、店舗せどりで時給何万円も稼いでいる動画を見つけたのです。 
 物販は経験済みでしたが、彼らは、僕がまったく知らない方法を知っていました。 

 『これだ!』

 僕は彼らの動画を見漁り、研究し分析。
 その日のうちに店舗に仕入れに行き、初月1万円を達成しました。
 そしてなんと、4ヶ月で10万円。

 この時の僕は、とてもわくわくしていた事を覚えています。

 ただ、ここで事件がおきます。

 季節が変わっただけで、急に売れなくなった。

 この売れなくなったことをきっかけに、やる気が低下していってしまいます。

 バス会社を辞めたあとの会社は、楽に働けてしまい、このままでもいいかなと思ってしまったのです。そう、25歳になり、世間一般的な安定した職業を見つけてしまったのです。

 副業に手をつけることを辞め、毎日夕方に帰ってきて安定した給料と、妻や息子、娘の笑顔を見れて満足してしまいました。

【息子の難病が発覚】

 そんなこんなで、幸せに胡座をかいて生活していると、息子の小学校で行われた尿検査で、再検査の通知がきます。

『どうせなにかのミスだよ』
 高を括っていました。

 何度尿を提出しても、再検査。病院を紹介され、向かうと腎機能に問題があると言われました。

 僕は『きっとすぐによくなる』
 そう思ってました。

 ある日家族で外食をしていると、息子が背中をかいていた隙間から、なにやら痣のようなものが見えました。
 僕は咄嗟に息子の服を上げ、背中を見ると丁度腎臓辺りに大きな痣が。
 虫刺されにしては大きすぎるし、どこかでぶつけたかと聞くと、そんなことはないと言うし。
 明日病院にでも見てもらうかと思っていた矢先、息子が店舗のトイレに行きました。

 7歳でしたので、もう一人でトイレは出来る歳でしたが、突然呼ばれたんです。

『パパ、うんちが真っ黒』

 心臓が止まるかと思いました。
 真っ黒はヤバいとどこかで聞いたことがあったからです。

 一旦そこでは冷静になり、真っ黒で墨汁を垂らしたようなうんちの写真を撮り、その後観察をしました。
 血のようなものは混じっていなかったようなので、そのまま病院に直行。一度検査をしましたが、さらに詳しくは翌日とのこと。
 
 そこからはどんどん事が進んでいきました。

 腎臓の生検をすることになり、入院と手術。
 小学二年生の息子を東京都内の病院に、一人で入院させることになったのです。
 娘もいますので、僕が仕事を休み一週間付きっきりで一緒にいました。

 なぜか病院のルールで、母親は泊まることが出来るが、父親は泊まることは出来ないと言われてしまい、息子が寝るまで一緒にいて23時には帰り、朝6時には病室の前にいれるようにしました。

 幸せに胡座をかいてしまったため、会社で働くことが安定だと勘違いをしてしまったのです。

 入院中はもちろん給料などなく、妻が努力し、貯めてくれた貯金を切り崩し生活しました。
 
 息子が寝たあと病室を出るタイミングで、何度も自分の無能さを痛感しました。
 こんなに遠い場所に、子ども一人を置いて帰るなんて。悔しくて何度も泣きました。

 けれど皆様に分かってほしいのが、ここまでのことがあっても、人は幸せには負けてしまうことがあるとゆうこと。
 退院後、完治はしない病気なのですが、安定し、少しずつ元気を取り戻す息子を見ていると、この子たちと一緒にいられる今の時間が幸せだと思ってしまうのです。
 決して悪いことではないと思います。

 ただ、僕が言いたいのは、家族のために生きるのならば、自分が辛いことをいくつも乗り越えなければいけないということ。

 自分勝手な人生ならば、幸せになる道のりは短いかもしれない。
 けど、僕のような、家族の幸せに生きる人生を望む人。僕のような準備もせず、順番を間違え、稼ぐ能力を身に着けず、幸せに胡座をかき過ぎた人間は、今からでも自分の身を削り、遠回りでも幸せに近付くしかないのです。
 
 家族が幸せでいてくれている間に、あなたが出来ることをやりましょう。
 家族のことは絶対に忘れないで、どれだけビジネスに集中しようが、あなたを作るのは家族です。

【死を乗り越え動き出した自分】

 ここまで読んで下さり、誠にありがとうございます。
 最後になりますが僕はこんなことを言われたことがあります。

 【自殺出来るなら、なんでも出来る】

 そんなことないだろ。と僕は思いました。

 辛かった人は、なんにも出来なくて、理想の自分になれなかったから自殺したのに。
 
 僕には運良く家族がいてくれただけ。
 一人だったらどうなっていたか分かりません。
 人は一人だと気付けないのです。
 気付いている振りをするだけなのです。

 そんな人達を助けたい。
 僕と同じように悩む人を、いつか助けられるようにしたい。
 今の僕の力では、アドバイスをすることしか、できません。

 今のあなたの状況を打破するために、僕に協力して下さい。
 僕の言葉を、あなたの大切な人に届けて下さい。

 こんなにも頑張っているのに、成果が出ない人、人生に挫けそうな人へ、届きますように。

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