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果てて、息

彼女がため息をついたのは、私が全てを吐き出しきった後だった。
「大体わかった。で、どうするの?」
ハツはいつでも合理的だ。でも私が欲しいのは解決策ではなく、上っ面でいいから寄り添いの言葉なんだ。せめて、ハツ自身の評価がほしい。
「いや別に、反対しない。でもさ、今後のことを思うとね。」
副流煙で充満した空気が肺を出入りすると、自分がそのまま煙になってしまいそうになる。ハツはやたら細長いそれを愛用している。やや前屈みになって吸う姿自体は見慣れたものだ。しかしこの不特定多数の呼気が混ざった空間は、気持ち悪い。
「あー、うん。はっきり言ってくれて構わないよ。」
「やっぱり、無理かなぁ。」
「あたしには決める権利ないからさ。」
「あるよ。」
「あんた自身に責任を負ってほしい。選択してほしい。あんたが後悔しないように。」
冷めたお好み焼きは美味しくない。小皿の上で時間が経過していく。お好み焼きに目がついていれば、視線が一斉に注がれていることだろう。顔の表面がヒリヒリする。
「少し、時間をもらってもいい。」
「わかった。今日はあたし帰るよ。紗希の家に行くから。」
「うん。」
ハツは机の上にお金を置いて出ていく。ジャケットを羽織って。10cm以上もあるヒールは、彼女の足に馴染んでしっかり地面を掴んでいる。そんな軽装で寒くないのだろうかと心配になるけど、通気性が低いから問題ないとのことだ。
灰皿の上には消された煙草が残っている。それをそっと取って、ビニール袋に入れる。悩んだところでどうにもならない。決断するのは先延ばしだ。逸る気持ちを押さえる。1時間後が出勤時間であることを確認して、予定より早く駅に向かう。勤務先に向かうには電車移動をしなくてはならない。

山手線の重い空気がより一層重く感じられる。退勤ラッシュは過ぎているはずだが、やけに人が多く酒臭い。そういえば金曜日だったか。ボリュームを見失った声で埋められた車内は、あるいはいつもより居心地がよいかもしれない。
「ああぁ、ぁ。」
ため息ギリギリくらいの音を出す。誰も気に留めない。乗客はみなてんでばらばらを向いている。私の居場所がこの街にしかないことを再確認するように、もう一度声を出す。
「んんっ、きぃ。」
阿保らしくなってやめる。途端に羞恥心が押し寄せてくる。タイミングよく電車が目的の駅を知らせるアナウンスを流したところで、平常心を取り戻して降車する。
店は駅から徒歩5分圏内にある。怪しげな看板をぶら下げた建物が連なる道沿いを歩く。喉は乾いていなかったが、コンビニに寄って水を買う。そこから少し北向きに進み、客引きをする数人の男性の横を通り抜け、大人二人すら通れないほど狭い入り口から地下に降りるとそこが店内だ。
「あぁ、ユウキちゃんお疲れ様。」
「お疲れ様ー。ユウキちゃーん。」
いつも通りやたら明るく声を掛けられる。今日は、メガネを掛けたデブの店長と、チリチリした髪の毛の喫煙者が出勤している。メガネデブは出勤表を確認し、チリチリはパソコンとにらめっこしている。貼り付けた笑顔すら眩しい。この人たちは何が原動力なんだろう。いやそんなことより。
「今日は、予約入ってるけど大丈夫かな。」
「大丈夫です。うわー、嬉しいな。」
「おおっ。頼もしいねぇ。」
「えへへー。」
「今日はね、120分、コスプレがセーラー服でお願いします!」
「へー、コスプレするの初めてだから楽しみです。」
「あっ、そーなんだ。」
「ユウキちゃんカバン置いとくからね。」
会話中に、チリチリによって『仕事カバン』と呼ばれるものが用意された。
「あっ、ありがとうございます。」
「いーえー。」
自分のリュックから貴重品だけ取りチリチリに渡す。
「お部屋番号はホテルZの1025です。」
「せんにじゅうご、わかりました。」
頭の中に、おおよそのホテルの位置と部屋番号をメモする。せんにじゅうご、せんにじゅうご。
「んじゃ、ユウキちゃん頑張ってね。」
「はい!行ってきます!」
急ぎ足以上、競歩未満の速さでホテルZがある場所へ向かう。客に早く会いたいからではなく、発熱させたいから。必ず足止めしてくる信号に、例外なく引っかかる。小刻みに縦に揺れて継続して発熱させる。脳の容量の大半を、寒い、が占める。寒い、寒い。横断歩道の向かいに男女がくっついて立っている。会話はない。しかしそこに異様さもない。恐らく、遅めの夕飯でも食べて帰るのか、駅でサヨナラするのか。二人にはどこへ行くのか、何をするのか、はっきりビジョンがあるように見える。

似たようなベージュのアウターに着せられた女性と何度かすれ違い、ホテルに到着した。フロントに居る男性に声をかけようとしたところで、スモークガラスの穴から顔を覗かせてきた。目と目が合う。こんなことならガラスは不要ではないか。やや小馬鹿にしたような目が残像になって短いフラッシュバックを起こす。やや高めの声と落ち着いた表情を取り繕う。
「すいません。1025で待ち合わせです。」
「はい。行ってらっしゃい。」
エスカレーターの上昇に伴い襲ってくる重量に少し内臓が圧迫される。減速していくにつれ、内臓が元の位置に戻される。次いで、10階に到着する合図。せんにじゅうごのまえで深呼吸をして、チャイムを鳴らす。足音とも物音とも自らの心音ともつかぬ音が近づいてくる。
「あ」
「寒かった?」
「いえ、ええと、少し。」
「そっか。」
靴を上品に脱げないことがコンプレックスの私は、脱げやすい靴を履く。家の鍵は迷子になるから、鍵をかけることをやめた。携帯だってなくす、人に買ったお土産を交通機関に置き忘れる、UFOキャッチャーでやっと手に入れたストラップはつけた日に引きちぎれた。


人を抱きしめている。エレベーターでの縦型重力から、横型重力に変わったことに体が対応しきれていない。さっきと違うのは、気持ち悪いかどうかだ。
「今日は会えてよかったです。」
「うん。来てくれてありがとう。」
「いえ。」
「久しぶりだから、いっぱい話したいことがあるなぁ。んと、とりあえず、これ。お土産。」
「んー…?」
「ユウキちゃんこういうの好きかわかんないんだけど…。」
「え?なんでも好きですよ?」
「銚子に行った時に…濡れ煎餅って知ってる?」
「あぁ!聞いたことあります。」
「湿気ったお煎餅だと思ってくれたらいいよ。…あ、これこれ、はい。」
「わぁ…。」
「駅の復興のために作ったものらしい。硬くないからお年寄りが結構好んで食べるらしいよ。日本茶とかに合うんじゃないかな。」
「早速帰ったら淹れてみます。」
「そうしてみて。」
抱きしめる。筋肉とも脂肪ともつかない腕を、命綱のように、しっかりと繫ぎ止める。
シャワーを浴びる。命綱がそのまま私の体ごと洗ってくれる。体を拭くのすら半ばなすがままになる。安っぽいボディーソープの余香が鼻につく。
一緒に横になる。ここだけが切り離された場所、まるでメリーゴーランドの中にいるみたいだ。ぐるぐる回っている感覚。初めての幼稚園。帰りたくて、母が恋しくて、一人ぼっちで天井を見上げてその場で回転していた。

あの日から空洞だ。胸元にぽっかり穴がある。以来、出会う人間に穴の中をぐちゃぐちゃにされてきた。球状だった外郭がいつしかボロ雑巾のように縒れて薄汚くなった。縫い合わせようとして失敗した並み縫いが痛々しく露出している。
「この前の、考えてみたんです。」
「あ、ああ。うん。急いで返事しなくてもいいよ。」
「はい。」
「ユウキちゃんは、本当はちゃんと考えてる人なのかなって…ああいや、考えてなさそうに見えるわけじゃなくて、ふわふわしてるからっていうか」
「わかりますよ。」
「だからこの仕事をするのだって、考えてしてるんだなってことは分かる。だからやめろとは軽々しく言うつもりないよ。」
「はい。」
「でももし、今後のことで少しでも力になれたら…。夢のために、何かできればって思って。」
「お気持ち、嬉しいです。」
「お金は、もうどうでもいいんだ。Wikipediaの募金とかにも使ってしまおうかなってくらい。」
「ふふっ、表示出ますよね。」
目の前の人の求めるものと自分の求めるものが合致するタイミングは、案外あっさり現れる。
「俺も高校生の頃はバンドしたり、そのためにパン工場でバイトして、朝の魚市場でもバイトしてやりたいことやってた。市場は謎の掛け声があってさ、魚の名前をコールするっていうのがあって…タイタイタイーって。」
「タイタイタイー。」
「あはは。でさ、大学に入ってからは研究したいことができて、学生生活が長くて、親にも助けてもらったよ。それでここ数年でやっと充分すぎるくらい稼げるようになってさ、恩返しできるぞってところで親父が死んで。」
この人にも空洞がある。大小様々な穴から風が吹いている。この人なら、私の空洞をその腕のひと突きで球状に戻してくれるんじゃないだろうか。この人の小さな空洞は私が埋めてあげられるんじゃないか。
「暫く落ち込んでたんだけど、最近は少しだけ仕事にもやりがいがあるような気がするんだ。ユウキちゃんに会ってからはさ。」
「そんな。」
「遊んだ10代、勉強した20代、会社のために働いた30代。40代は人のために生きたいなって。」

「    。」
「返事は急がなくていいから、ゆっくり考えてみてほしい」
「お願いしてもいいですか。」
「…わかった。ただ、この仕事はやめてほしい。」
「それは、わかってます。」
「決断してくれてありがとう。じゃあ…これからよろしくお願いします。ていうのも変かな。」
「そんなことないです。」
帰り際、連絡先を交換した。そういえばこの人は連絡先も、本名も、どこに住んで来るのかすら聞いてこなかった。だから個人情報の保護に疎い私が全部開示してきた。
そういえばコスプレしなかったな。ネオンの反射が眩しくて、逸らしてしまった。体はもう冷えてはいなかった。

「ハツ、ちゃんと考えたよ。」
口の端を横に引いたまま、縦に開かずにぽつぽつと話し始める。本心を人に伝える時の私の癖だ。
「私、将来のために、自分のために、選択することにしたよ。」
「そっか。」
ハツは煮え切らない表情をして下を向く。前髪がこんなに長かったなんて。目元が翳る。ハツの細かい表情を知りたいとは思わないから、私は視線をコーヒーカップの上で泳がせたままにする。
「ハツは、バンドまだ続けるの。」
「そうだね。もう少し。」
「いつまで続けるの。」
「分かんない。ただ、私は仲間がいる。」
あのね、ハツ。私にも仲間ができたんだよ。不純かもしれないけど、これから同じ空洞を分け合う同一個体と出会ったんだよ。かつて同胞だった彼女は、今ここで事切れた。彼女は何かを察知したようで、ふっと表情が柔らかくなる。
「またライブ来てよ。」
「見に行く。全部、見に行く。」
「いつかは仕事で来れなくなってほしいな。」
「ハツだって、チケットとれなくなるくらい有名になってよ。」
「なれるといいな。」
「なれるよ。根拠はないけど。」
「ないのかよ。」
「信じてるから。」
「じゃあ、いい報告ができるように、やるしかないね。」
「やるしかない。」
「じゃあ、私、行くね。」
「今まで、ありがとう。」
「幸せだった。」


夢と恋愛には賞味期限と消費期限がある。なんて突飛な持論だ。だけど思いがけず反芻してしまう。
期限を決めるのは誰なんだろう。問いかけたところで、答えてくれるほど責任を背負ってくれる相手はいない。捨ててしまうこともできる。排水溝に流された私達はそのまま下水道を通ってやがて自然と一体化する。そして雲になろう、雨を降らそう。そのまま海で溶け合ってやがて何世紀も旅をするんだ。規則的に揺れる彼女のポニーテールが遠ざかるのを眺めながら、そんなことを思った。

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