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我が家の非女子的記念日への熱情

我が家は、誕生日、結婚記念日等への思いが、どうやらかなり熱いらしい。

どうやら、というのは、まったく意識していなかったからだ。

それを意識したのは、家を出た家族が「よその家は、誕生日にうちほど一生懸命じゃない」ということを教えてくれたときからである。

「うちは、もう朝から『さあ、誕生日だ』みたいなテンションが、お父さんにもお母さんにもあるやん。よそは、そこまでないのに、驚いたよ。あっさりして拍子抜けした」というのだ。

へええ、そうなんや。て、いうか、うちって、そんなにテンション高かったんだ?

そう言われれば、たしかにそうかも。


で、先日家族が誕生日だったのである。熱情はあっても、仕事は仕事だから、わたしに昼頃仕事が入っていた。誕生日の本人は予定なしだが、ゆえに遠出はできない。若干申し訳無さが漂うわたし。

お昼に好きなメニューの皿そば(兵庫北部の名物である)にするために、薬味を買いに行ったり、すぐに仕事だというのに、テキパキと洗い物をしたり。埋め合わせに必死である。

仕事が終わり次第、神戸に向かおうとした。本人が神戸で開催している、「ジブリの大博覧会展」を希望したからである。さあ、行こうと思ったら、洗濯物を干すことをすっかり忘れていたことが発覚した。

尋常ではない。やはり、誕生日に対しての熱が半端なかったのだった。しかも、振り返るに、前日あたりから、その熱はむくむくとエネルギーを蓄えていたのだった。


ただ、それは、いわゆる、女子的な「今日なんの記念日か、覚えてる?」的なものではまったくない。それでいうと、結婚記念日の方が高そうなものだが、順位的には誕生日の圧勝である。

一番近いのは、プロジェクト達成の打ち上げ感覚である。毎日毎日生きてきて、今日誕生日、やったね!お疲れ、グッジョブ!!的なめでたさなのである。

毎日、「今日も生きて、1日終えたね、お疲れ」を積み重ねてきた、集大成が誕生日なのだ。

◯歳を迎えられた。結婚して、◯年持った。いやあ、よくもまあ、ここまで来れたね、というめでたさに、テンションが上っていくのだった。

生きることは大変なことである。年を重ねるにつれて、死が意識される度合いも上がる。昨年は家族が体調を崩した。この日を迎えられることは、例年以上にうれしいことだったのだ。

世界中の誕生日を迎えた人にも、生きて今ここにある、すばらしさに乾杯を捧げる。

おめでとう。この世に生まれて、そして、生きてくれていてありがとう。

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