国民教材でなければ「羅生門」を扱いますか?
どうしたら記事がうまく書けるのかと思いながら書いています。ナンバです。コロナでこんな状況だとオンラインが捗ります。オンラインって言っても、授業じゃないです。勉強会とか飲み会の方です。一気にオンラインで会うことのハードルが下がった事は良い事ですね。
今回は高等学校の定番教材である「羅生門」について考えました。
高校の国語で覚えていることと聞くと多くの人は「山月記」と「羅生門」を挙げてきます(ナンバの界隈)。「羅生門」と「山月記」は再録数や再録時期から見ても定番教材、そして認知度から国民教材だとも言えるでしょう。教科書の配列から見ると、およそ高校生活で出会う小説の中で2番目のあたりに位置づいているようです。この配列で良いのかという点は置いておいて、今回は「羅生門」でどんなことができるん?という感じで話を進めていきました。
「漁父之利」は「教材の功罪」という点で考えを整理してみましたが、「羅生門」は「内容価値」「技能価値」「優先度高」「優先度低」の観点で考えを整理していきました。結果的に「羅生門良いねぇ」となってしまうと書いていましたが、振り返ると「価値」ということばを用いたからなのかなと思いますね。思考の方向がことばによって規定されていたんだなぁと振り返って感じました。
さて、本編にいきましょう。まず、「羅生門」の先行実践として、「模擬裁判」「リライト」「古典と比較」「表現に着目」「結末改訂について」「多様な読みについて」などがあるようです。「模擬裁判」なんかは、「論理的に相手を説得する」ことを学習する時に有効かなと思います。以上の内容を見ても、特段驚く事はない菅と思います。言われてみると、まぁ聞いたことあるなとなるわけです。定番教材の強みはまさにここかと思います。長年実践が行われているので、様々なアプローチが試みされている。それを誰もが参照し、模倣することができるというのは、初任者から経験を積まれた方までとても良い面かと思います。
しかし、ちょっと立ち止まりたいと思い、「国民教材」でも「定番教材」でもなかったら「羅生門」を扱いたいのかをみなさんに投げてみました。そもそもこの教材は教科書に載っていて、「国民教材」かつ「定番教材」だから学習が行われている面が強いと思います。みなさんはどう考えているのか単純に疑問だったわけです。
全体としてはレベルがちょうど良いというところが挙がっていました。勉強しないと読めないものだが、難解でないレベルというところにみなさん価値を見ているわけです。難易度ということでは他にも、登場人物の少なさ、文体、ストーリーが把握しやすい、心情がしっかり描かれる、場面がわかりやすいなど挙がりました。僕自身も、高校の文学的文章の入門として、場面設定が最初に丁寧に語られているのは指導がしやすいと思っています。面白いと思ったのは、中学校だと感情移入しやすい視点人物が多いので、中学校との接続という意味で「羅生門」は感情移入がしやすい視点人物だから良いのではという指摘がなされていました。古文の高校入門教材の「児のそら寝」の採録意図も学習者の年齢と近いということが挙げられています。自分が実感しやすいということは入門教材として求められていそうです。(ただ、それが適しているかは別問題)
自分が実際に授業をするとき、なぜ「羅生門」で行うのか、そこに対しては自覚的でないといけないなと思います。教科書に載っているから扱うんでしょ?という感じにはなりたくないですね。教科書に載ってたと理由はあると思いますが、自分なりに価値付けをして臨みたいものです。だって、そうじゃなければ学習者に失礼だと思いますし。
本当はもっとあるんですが、考えながら参加していると部分が抜けてしまうんです。途中で引っかかると、書籍とか読み始めちゃうのでダメですね。でもオンラインでの参加だからこそできることだなと思います。このような感じで「羅生門」については終わりました。第二部として韻文の学習指導として「サーカス」「小諸なる古城のほとり」について協議していましたが、もう書く力がないのでやめます。一言でまとめると詩って分析の観点をもてるとめっちゃ面白くね?という感じです。
Slackの方でオンラインについて質問したら親切な方(Twitterでもお世話になっている)が丁寧に教えてくださったのですが、速度制限でうまく返せないので悶々としています。速度制限は罪悪ですよ。それもあってWiMAXのTryに申し込みました。10日間くらい無料でWi-Fiが使えるのでぜひ気になる方はお試しください。
ここまでスクロールしてくれた方々ありがとうございます。将来は文才をもって生まれてくることにします。ではさようなら。