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愛国,道徳のマズさ

こんにちは,SGです.いよいよGWも終わってしまい中間テストが近づいてきています.私は,まったく勉強が進んでおらず非常にまずい状況です().がんばって乗り切るしかないんですが.

さて今回は,愛国や道徳といったことについて書きたいと思います.まず前提として述べておきたいのは,愛国心や道徳心というもの自体が悪だと述べる文章ではないということです.でも,「マズさ」と書いてあるじゃないかという批判があるかもしれません.この後の文章をよんでいただければわかりますが,これは何故愛国心,道徳心をもつのか,またもつことをアピールするのかといった心の働きについての批判的考察であるということです.そして現代社会の病理について関連させていきたいと思います.それを踏まえたうえで,さっそく書いていきたいと思います.

愛国というのは国を愛するということ,道徳というのは人間としてあるべき姿を指すということはおおむね一致を得られると思います.どちらも美しいと感じられることも多いと思います.ただこれは一歩間違えれば,とたんに醜いものになってゆきます.例えば,愛国を叫んで他国の人民の尊厳を傷つけること,道徳を持ち出して目下とされる人に理不尽なことを押し付けること.また,どちらにも共通して,俺は愛国的,道徳的なのにあいつはそうではないから徹底的に攻撃しろというようなこともあります.

こうしたことは大体,ネットを見ていれば吹き荒れていますし,街宣もあります.無縁な人はなかなかいないでしょう.もちろんこうした物事は,日本に限ったことではなく,様々な国,場所で起こることです.そういう意味では人類に共通的なテーマだともいえるでしょう.

美しくも醜くもなり得る,愛国や道徳.この差をわけるのはなんでしょうか.私は愛国や道徳を積極的に口に出すようになることによって醜くなっていくと考えます.つまり,それ自体は否定されるべき考えではないが声高に述べる必要はない,というか声高に主張することはむしろ否定されるということです.

なぜか.それはそうしたことを主張する心の働きを考えればわかります.キーワードは,ポジション取りと偽物自己肯定です.

まず愛国や道徳を主張する人は,それを批判する人が現れたとき,あいつは愛国心がないとか日本人でないでないとか,伝統を壊すとかを主張します.そしてそれは一定の賛同を得ます.これは何でそうするかといえば,自分は正義であり相手は悪であるということの快感が大きいといえます.基本的に国を愛することや道徳的であることそれ自体は善とされます.それを錦の御旗のように掲げることで,自分を正当化し,相手の主張を無効化できるのです.これによって自分のポジションを獲得して,偽物な自己肯定をするのです.

ここで例として,道徳の授業というものを考えてみます.現行の道徳の授業自体,洗脳的な側面を持つことから批判もあります.ですがとりあえずは,道徳の授業がほかの科目と同様に成績がつく科目であったならどうなるかということを考えてみます.良い成績を取るためには,より道徳的なことについて発表したり意見を言うことになると思います.もっと進んでいけば,こういう発言をしたら内申点が上がるといった対策が考えられるなどしてゆくでしょう.果たしてこれは道徳に対する正しいアプローチなのかどうかということが問題になってくるはずです.

道徳的な行為を,普段の生活の中から自然と行うということが大事であることは間違いありません.それが授業になったとたんに,自分のほうがより道徳的であるといったことをアピールするようになるということです.これはポジション取りを目指す手段として使うものであり道徳的とは言えません.道徳について,その理解についての優劣を定めるところでは必然的に自己矛盾が発生するのです.逆に普段から道徳的な行為をしている生徒が,あまりに自然なことであるがゆえに授業でアピールしないことも考えられます.そのようなことがあったとして,その生徒がより道徳的でないといわれることは明らかに誤りでしょう.

さらに言ってしまえば,何が愛国的・道徳的であるかを定めることは非常に困難です.例えば,自国防衛,利益増進のためであっても,いったん負けることで大きい利益を得るといったような考え方も国際関係の中では当たり前にあります.パワーバランスを考慮しながら冷静な交渉をすることが必要です.ところが,頭の悪い愛国自称愛国者からいえば,それは売国行為に移るかもしれません.そしてそれを声高に批判するのです.

その批判が考慮に値することもあるでしょう.ただこのnoteで書いているのはあくまでも心の働きの問題です.なぜそういった批判をするのか,ということです.本当の愛国者は, 自分の主張に沿う人は愛国=正義,そうじゃない人は売国=絶対悪などというわけがないと思われます.そのような主張は”愛自分”の主張だからです.多くの人に訴えかけていくという行動は大いに結構でしょうが,分断をあおるのは論外でしょう.合わない人を含めて同じ国にいる,そういった大規模な集団が国民国家なはずです.

道徳についても同じことです.何が道徳的かなどということは単純には定義できません.例えば若者でも持病がある人が優先席に座るのは当然です.そういった事情を考慮しない(考えたり想像できない),自称道徳的な人物が,「席を譲らない若者」がいるなどと正義を盾にたたくのはあまりにあさましい根性です.

ここまでの話を踏まえてもっと言ってしまえば,どうしてそのような行動をとるかという本質的なところを突き詰める必要があります.これは最終的には自分自身との対話になってきます.

なぜ,愛国的,道徳的な行動をしようと思うのか自分自身で徹底的に考える.どういった場面でどう動いたらいいか自分自身で考えるということです.それは決してポジションを承認されて,偽物自己肯定するための手段であってはなりません.その時点で矛盾になるからです.その先において考えれば,だれかを誹謗中傷するようなことは慎むでしょう.強制的に自分が正しいと思うことを押し付ける,そうでない人を徹底的にたたくといったことはおこらないはずです.

最後に,ではなぜ最近各国で,愛国や道徳などを声高に言う言説が大きくなってきているかということについて考えてみたいと思います.これには多くの要因が絡み合っていることは間違いないでしょう.その中の一つとして,不満や不安の高まり=社会の不安定化が起こっていることが考えられます.現在は,資本主義が行き詰まり格差がかなりのところまで来ています.金がなければ生きていけない社会にここまでの格差が生じてしまっていることは大きな問題です.さらにインターネットによってパーソナルな人とのつながりが希薄化しました.このような流れはコロナ禍でさらに加速しています.

こうしたことから,自分の生き方,未来に全く自信が持てないという状況になっています.これはマクロに解決することはほぼ不可能な流れです.なぜならこうした資本主義の問題点はマックスウェーバーのころからわかっていたことだからです.非合理的なエートスがなければ,合理的な社会は必然的に回らなくなるのです.しかし,限界を迎えつつある現代の社会について改革する気力はそのなかに足りていません.社会やシステムの中での合理的な生にどっぷりとつかってしまった者たちにとって,その外側,違う方法は盲点(スコトーマ)です.

こうした中では,多くの人の感情は愛国的,道徳的ではなくなり,その結果として愛国心,道徳心が強調されるのです.ポジション取りはじつは,タイタニックのなかで行われています.つまり,もう沈没はまぬかれない船(社会)での座席争いです.このことを理解したうえで,自分自身はその流れに巻き込まれずにいかに生きていくのかが問われていくのが今後の課題になってくるのではないかと思います.

いかがでしたでしょうか.今回は少し重いテーマとなってしまいました.しかしこのことは現代社会を生きる上で意識しておいたほうが良いことだと思っています.最後に,書いていることの多くは,社会学者の宮台真司さんに大きく影響を受けていることを明記しておきます.

それではまた次の記事でお会いしましょう.

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