2024/8/17 青の洞窟ボロネーゼ

今日の昼はボロネーゼの気分だった。散髪帰りで気力もなかったし、サイゼリヤで食べようかと思ったけど、土井善晴先生の本で「料理から逃げない方がいい」と言っていたのを思い出して、自分で作ることにした。ところが買い物から帰るなり寝てしまって、起きて何も考えず作った食事はひどいものだった。刻んだだけのモッツァレラチーズ、ひらすの刺身、そしてボロネーゼ、あとブルーベリーヨーグルト。なんの脈絡も落ち着きも、創意工夫もない食事にしてしまった。これならばサイゼリヤで食べていた方が良かっただろうか。私は必ずしもそうではないと思う。
パスタの茹で加減、旬のブルーベリーのみずみずしさ、養殖のひらすが意外と美味しいこと、レトルトのパスタソースが一から作ったものと比べて油っぽいことなど、自分で料理することで様々な気づきがあった。料理することで自分の感覚が磨かれるとはこういうことなのだろうか。
だが、改めて料理というのは非合理的で、贅沢なものであるとも感じた。ファミレスに行けばもっと安く短い時間で食事を済ませられただろうに、それをわざわざ長い時間と高い食費を割いて行ったわけである。しかし、それは私の勝手である。高かろうが時間がかかろうが、自分の食べたいように食べる権利が誰にでもある。それには美味しいものとか安いものといった結果だけでなく、自分で調理して食べるかどうかという選択の権利も含まれるはずだ。同じものなら買って食べたほうが合理的じゃんという意見からはその権利への配慮がそっくりそのまま抜け落ちている。
そもそも、私はなんのために料理したのだろうか。ファミレスで食べた方が合理的なのは分かっていた。私は簡単に料理を放棄することで自分の感性が失われることが怖かった。逆に、そのような感性を放棄した人間にとっては料理などどうでも良いことだろう(あるいは料理以外の感性の磨き方もあるだろう)。しかし、料理以上に普遍的な自分磨きの場もないと思う。
料理によって磨かれる感性は目で見ることが難しい。味覚・嗅覚は言語で正確に表すことが難しいとも言う。そこで磨かれているものは何?なんと表現する?

疲労困憊している現代人にとって、料理とはあまりにも重いタスクだ。しかも疲れているのでまともな料理ができず、さらに不満が溜まってしまっては負のサイクルだ。しかし自分で自分の食欲を満たせないということも、人を苛立たせ未熟にするのではないか。農業体験とか、あえて苦しい環境に身を置く人々はそこから何を得ようとしているのだろうか。(苦中の楽?)そして料理がそのような場となるためにどのような工夫ができるだろうか。今まで女性に料理という責務を押し付けてきた日本社会はどのようにしてその未熟さに向き合うか。

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