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繋がり過ぎだったんだ

私は「繋がり」という言葉が嫌いだ。
よくあの人とこの人を繋げるだとか、もしくは繋がったとかそんな用途で使われている。

言葉の奥を除けばドロドロとした束縛めいたものがあるし、実際に縛るくせして自分はその行動の責任は取ろうとしない、自分の意思ではなく「みんな」の気持ちがその関係性を作ったと言わんばかり。なんて不誠実だろうか。そんなことばで私を縛らないで。

繋がりという言葉


パンデミックや大地震などの災害が起こるたびに「絆」だの何だの騒がれる。普段はそんなことを一切言わないような人たちが、むしろそんなことを全体主義的だとか言う人たちでさえ「連帯」「結束」と言葉を変え叫ぶ。

 ・ 絆
 ・連帯
 ・結束

どれも個人を社会に繋げる言葉たち。
私を社会の持ち物にする言葉たち。

繋がり過ぎだったんだ。

私はいろいろな物が休みになってしまったから、一見かなり孤独になったような感じだった。世間のニュースを見ても孤独感解消やSNSなどでオンラインで繋がりを保とうなど、そんな話ばかりで全員でどうにかしようといった感じのムーブメントすらあるので日本全体そんな感じなのかもしれない。

もうそんなニュースにも疲れてしまって、色々なものから手を引いた。SNSはあまり見なくなった。反応もしなくなった。前に比べてあまり人と合うこともなくなったし話すことも減ったと思う。

一人だなって強く感じた。

でもそれで良かった。だれもいない野原に引っくり帰って星を見たり、山を歩いたりしてする時間ができて人のことを考えなかった。気持ちも行動も縛られている感覚が薄れ、不思議とずっと気持ちが晴れやかでのびのびできた。

繋がり過ぎだったんだと思う。

人の関係が目に見えすぎて「繋がり」が過剰に溢れていることに麻痺してたのだと思う。自分が得体の知れないなにかに同化仕掛けていることすら気づかない程に。それがここ最近離れてみてやっと気がついた。

繋がれなくても

そうなると皆の感じる孤独は本当に孤独なんだろうか。私が一人でいるのも好きということもあるかも知れないけど、世間が恐れているものは囲っている物が逃げてしまうかもしれないという怖さの夜に見える。案外人は毎日顔をつきあわさなくても、メッセージを贈り合わなくても人は離れないし気分も楽だ。

何より相手の動向を逐一観察して、社会的な相手を自分と「繋ぐ」ことをしないと、やってけない世界がそもそもおかしかったのだ。

今こそ繋がりから距離を置くチャンスだ。それに社会に繋ぐこともやめられる。やっと個人が個人として生きることができるし自分と向き合える。それは何処か孤独で一人かも知れないけど、得体の知れないなにかと自分を一体化してしまうまで「繋がる」ことよりはよっぽど自然で気持ちの良いことなんじゃないだろうか。

自然と繋がりが減る今だから私自身と向き合ってあげたいし、いっそ全てが収束してもこのままで良いよ。オフラインで一人でいること、繋がりを求めないこと、それが私が今できることだ。

そんなことをふと思った。

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