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父、やかんを磨く

#大学生〜大学院生

ある日、家に帰ると父がやかんを磨いていた。

かなり暑い夏の日だった。

父はリビングのテーブルに新聞紙を広げ、
布に少量の「ピカール」含ませ、
せっせと我が家のやかんを磨いていた。
汗が滴り落ちて、新聞紙がところどころ滲んでいた。

磨いている理由は特になかった。いや正確には言わなかった。

父は便宜上「汚れてたから」と言っていた。

しかしながら、やかんは何年も前からかなり汚れていたのだ。
父はまるで今日見つけたかのような素振りだった。

気づいた順に磨く習性があるのかと思い、コンロの汚れについても言及してみた。
すると、コンロについても磨き出した。

コンロが終わると鉄のフライパンを手に取っていたので、
鉄製の調理器具は油馴染みなどの理由から洗ったり、磨いたりしないほうが良いと教えた。

磨く作業の音がうるさいので、ぼくは自室に戻った。

父はその後もいろいろ磨いていたようだ。
きっと、父なりの優しさなんだろうと思った。


夕方、母が帰ってくると、父は
「やかんとか、ピカピカに磨いたよ。洗い物もしといた!」
と報告していた。

やかんは、磨きすぎてピカピカというより、もはやビッカビカだった。
母も喜んでいた。
ぼくもなんだか嬉しかった。

さらに母は鉄のフライパンを見た。
長年使い込まれ、表面が虹色に光っていたフライパンは、
中性洗剤で綺麗に洗われ、鉄本来の色になってしまっていた。

少し間を置いて、父に「ありがとう」と伝えていた。

これが人の優しさかと思った。
少しほっこりした。

父はやりきった表情でテレビを見ていた。

リビングには役目を終えた汚い布と、ぐちゃぐちゃの新聞紙が残っていた。
母は無言でそれらを片付けた。

その日の夕食はいつもと違う味だったけど、とても美味しかった。

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