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救うべきは社会じゃなくて自分では?

とある人を見ていて抱いた違和感が、今日すごく言語化された気がした。そのひとは、自分があまりいい環境で育っていなかったことを原動力に、貧困世帯の子どもを救いたい、社会をよくしたいとNPOの仕事に精を出していた。(たぶんそういう理由でNPOで働いてる人多いと思う)

でも、自分自身が困窮していて、仕事に追われて時間もなくて、近い存在であるわたしのことには見向きもしない。

自分のことすら大事にできてないのに、周りのひとのことなんて大切にできるわけないし、社会のことなんて大切にできるわけないのに…とその頃からいびつさは感じていた。そのいびつさがなんなのか微妙に言語化できないまま半年近く経っていた。

そして今日気づいたそのいびつさは、「自分の幸不幸が、隣のひとの幸不幸とつながっている感覚がない」ということだと気づいた。

そのひとは、自分が困っていることは自分の問題や社会問題と呼ばれるものとは関係がないものとしていて、今日食べるものにも困っていたのにそれが問題とも思っていなかったので、もちろん近い存在であるわたしにも、友人にも支援団体に頼ろうともしていなかった。

でも、自分が困ることは周りにいる人も困ることで、それが社会問題と呼ばれるもの。自分の先に他者がいて、他者の拡張が社会である、という認識がなかったのだと思う。

自分の過去の経験から今の仕事をしているはずなのに、なぜか今の自分の困りごとに関しては「他の人も困っているはずだから、なにか解決の手立てを探せばあるかもしれない」「誰かや何かを頼ってみたらいいかもしれない」とは思わない。

そこには「プライド」という大きな壁があったと思う。でも多くの「困りごと」を抱えているひとたちが、そのプライドのために自分が困っているのだと気づきたくないのだと思う。(例えば、予期せぬ妊娠をしてしまったひとが「恥ずかしいことだから誰にも相談できない」と思ってしまうとか)

それはわかりやすい、予期せぬ妊娠や犯罪などでなくても、しかも社会をよくしたいと思って仕事に就いているひとですら、

自分の困りごとに気づかず、それが社会の構造の一部であるということに気づいていない、というのが問題の根深さであり肝だと思っている。


そして、話をわたしに紐づけると、わたしはやっぱりそういうひとたちに、「あなたは困ってるんだよ」「助けてって言っていいんだよ」って伝えていくことがしたいんだと強く思った。

「助けてって言っていいんだよ」って言葉はよくいうけれど、そういうひとたちってたぶんほとんどが自分が困っているんだってことにも気づいてないと思う。そして同じようなことで困っているひとがたくさんいて、助けてくれるひとや団体があることも知らない。

だから、わたしは自分がまずは少しでもその見本になれたらと(なろうと思って始めたわけじゃないけれど)、いろんな生きづらさをオープンに語って「こんな生き方もあるよ」「こんな解決策もあるよ」「困ってるって言っていいんだよ」ってことを伝えてきたんだなって思ったし、これからもしていきたい。

まずは、そこから。

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