見出し画像

Through Another Eye

「記憶」することと「記録」することは圧倒的に違う、と僕は思っていて...大切なことを覚えておきたいのであれば肉眼で視る方がずっといいし、形として残しておきたいのであればカメラで写真(日記や詩、絵や音楽など...他の媒体でももちろん素敵だと思う。)として残す方がいい。
では「記憶」と「記録」中になんの繋がりもないかといえばそうでもなくって...僕らは体験に基づいて様々なことを記憶していて、その中で写真を撮ることは、その体験に繋がる栞を挟む行為だと思うんだよね。

画像1


「真を写す」と書いて「写真」だけれど、写真の中にどれだけ真実があるのか、僕らは知らない。撮った本人でさえ。
生活の中に構図が無いように、僕はあまり構図とか...技術的なことを度外視して撮影をしてるつもりだけれど、極限に思考を停止してシャッターを切ったとしても、「こう撮った方が綺麗に見える」とか、僕の主観というフィルターはどうしたって働き続ける。

その中で僕が記憶していることと、記録していることの中にどれだけ差異がないかなんて分からない。
好きな人を綺麗に撮れても、その人の心の内は写せない。

画像2


予定されていたものが数多く延期・中止され、来ると思っていた明日とは違う明日が来ることが当たり前になってきた。
先の見えない不安の中で、数年後の僕らは今日という日の何を覚えていて、何を栞として、今日のことを思い出すのだろう。

薄暗い部屋の中で芍薬の花がひらく。命は続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?