見出し画像

私を構成するマンガを紹介するはずか、気づいたら「青春プレイバック記」になっていた。

GW期間中、朝の脳トレとして文章を書いている。今回はnoteのお題にチャレンジだ。「#私を構成する5つのマンガ」とのことだが、書いていて思った。

漫画と記憶が密接にリンクしていることを。そんなわけで漫画紹介というより、自分の青春プレイバックみたいな内容になってしまった。

ちなみに、漫画の内容についてはあえて読み返したり、細かいことを調べたりせず、記憶のままに書き連ねる。また、思い出の量はまちまちである。つまり、文字量もまちまちである。

朝からエモい気持ちになったぞ、noteよ。ありがとう。

運命を変えてくれた「SLAM DUNK」

ジャンプ黄金期を、最も多感な時期に迎えられたのは、“親に感謝”である。「バスケ漫画の金字塔」とか、「語り継がれる名作」とかなんとか言われるが、自分にとってそんな客観的なものではなく、人生史上、最も翌週が待ち遠しい時間を創出してくれたコンテンツだ。小学校高学年から中学に至る話である。

小学4年生から野球を始めた自分であった。小6の時には、県2位になるほどの強豪校。そこで、ベンチを守っていたのが自分だ。入部した時に、すでにメンバーは固定されており、岡本監督からして「あと1年早く入っていれば」と言わしめる才能の持ち主だった(本当か?)。自分はバッティングが強みで、守備はザルだった。宇都宮、宮の原小学校。そのホームベースからプールに入れるほどの大飛球を飛ばしたのは俺ぐらいじゃないか。しかし、結果として補欠であるため、あまり試合の記憶などはない。

脱線するが、当時うちのチームに「ポンキッキ」が来たことがあった。女性のレギュラーメンバーがいたためだ。「ポンキッキ」クルーが1週間ぐらいベタ付きでドキュメントを撮ってくれていて、実家に帰ればまだVHSが残っているはずだ。やたらとセクシーなディレクターのお姉さんに、トランシーバーでみんなで卑猥な言葉を投げかけてみたり、ムックの中からおっさんが出てきて驚いたり、その記憶の瑞瑞しさたるや、である。

結果、その様子は1週間に渡りオンエアーされ、最終日には「アトムの子/山下達郎」の疾走感溢れる音楽とともにPVのように編集された。自分が映ったのは、本当に数秒に満たないが、キラキラした宝石のような思い出である(当時のみんなは親になり、再び宮の原小学校に子を通わせているメンバーも多数)。

こんな野球一辺倒の自分だが、一方で「SLAM DUNK」にどっぷりハマるという「ひとりねじれ現象」を起こしていた。学童野球を引退した後は、当時新設されたばかりのバスケクラブに出入りするようになり、そこで実戦でも学んでいた。

中学に入学となり、クラブ活動を決める。体験入部を経て、本入部となるわけだが、私は野球部の体験入部を選んだ。しかし、そこで明らかになったのは(小学校の時の)レギュラーと非レギュラーの対応の差である。奇しくも、その中学校には3つの小学校から人が来るのだが、どこも強豪で、粒ぞろい。そんな中、最初からポテンシャルあるぜ!みたいな顔してる自分なんぞ見向きもされず、邪険に扱われたものだ。ショックのまま体験入部期間を終え、当時の自分は野球部で戦えるのか悩んでいた。

そんなある日、友人と宇都宮中央女子校の校庭にバスケゴールがあることを知り、忍び込みプレイをした。相手は青木健二という、のちに一条中のヤンキーの最前線を突っ走る男である。彼はバスケ部の入部を決めていて、一緒にボールを持って向かった。シュートをしたり、1オン1をしたり(記憶が定かではないが)。確かそこで、健二に「うまいじゃん! バスケ部入ろうよ!」的なことを言われたのだった。

そんな夕暮れのバスケで、僕はバスケ部への入部を決めた。野球部での体験入部から、本チャンでバスケ部に入るという裏切り。その裏にあったのは、紛れもない「SLAM DUNK」の存在だったのだ。

「こちら葛飾区亀有公園前派出所」で刻まれた多様性の肯定

母は4姉妹。皆、車で15分以内の場所に住んでいて、小さい頃から今に至っても、ずっと仲が良かった。「こち亀」で記憶に残っているのは、そんな母の姉の家「くんくん家」(3個上のいとこが「くんくん」と呼ばれていたから)で、本棚からそれを漁って夢中で読んでいたこと。

それから記憶は飛んで、実家になる。未だ、家の本棚にはほとんど表紙がなくなった、緑色の背表紙が並び、お風呂に入る度、5冊ぐらい持って、読み返しているのだ。

破天荒な両さんはもちろんだが、中川と麗子のずば抜けた金持ちっぷりにワクワクしていた。中川が生まれた日のパレードや、フェラーリやテスタロッサみたいな名称もここで知った。空から俯瞰の画角で描かれた「N」と書かれた大きなビルに、スーパーカーが並ぶ様。多忙すぎる中川の父親がヘリから降りてくる様子。麗子の家族が世界中から一箇所に集う、大スペクタル。そして、何よりそんな2人が普通に交番で働いているってのが、今でいうパラレルキャリアの先取りではないか。公務員の副業が〜とか、収入どうなってんねん!みたいなツッコミは邪推で、とにかくあの交番で起こる珍騒動が楽しい。

当時、毎週ジャンプを買っていたが、そこで読んだというより、印象強いのは単行本。記憶に残る回をなぞると、幼少期の勘吉のエピソードが多い。クソっ、巷の「こち亀」評と変わらぬのだな。勝鬨橋を開いた回、旧後楽園で野球観戦してた回、フンコロガシと呼ばれていた回。子供ながら郷愁を感じるエピソードが琴線に触れていたようだ。

現代に戻り「じゃあ、今夜はお前らのおごりでな!」と中川らの肩に手をかける両さんを思い出し、ふと泣きそうになっている。

「TOKYO TRIBE2」にはHIPHOPに染まった青春が詰まっている

中学時代、自分は人より早くHIPHOPの存在を知り、どっぷりハマった。バスケ部では最初こそ3ポイントがやたら入る1年の船山ということで日の目を浴びたが、それにかまけて努力を怠り続けた結果、またもや補欠へと成り下がったのだ。

しかし、そんな自分を出迎えてくれたのがHIPHOPだった。厳密には「さんピンキャンプ」というビデオ。説明や内容はリンクに任せるが、今も活躍するライムスターやZEEBRA、MUROにブッダブランドなどが一堂に介した、エポックメイキングなイベントの記録である。当時流行していたB-BOYファッションから音楽に傾倒したわけだが、そのハマりっぷりはまさに“ヒップホップヘッズ”のそれであった。日本語ラップからハマり、早々にレコードプレイヤーを購入。高校の入学祝いでDJセットを揃えた。当時、パルコにあった島村楽器に通い、店頭に置かれたDJセットをいじったり、店員の今野さんに教えを請うたり(今はどこにいるのだろう)。「船山くんてDJとかやってるらしい」というブランディングがなされていった。

そういう活動をしていると、次第に当時宇都宮でヒップホップをやっていた同じ年の奴らと相対することにある。これがまた困った。全員ヤンキーである。マジで怖かった。中学の時、今も連絡を取り合うDJ MOTOHIROの家に初めて訪れた時のことを今でも覚えている。

MOTOHIROは隣の中学で、同じ歳ながらすでに超絶スクラッチテクを持っているという噂があった。すでに名を轟かせていたのだ(今もバリバリの現役で、宇都宮を代表するDJとして活動中)。満を辞して、一張羅なヒップホップファッションに身を包み、MOTOHIROの家に行く。

一軒家を上がると、不朽の名曲「Really into you/Around the way」でスクラッチをする音が聞こえてくる。恐る恐る部屋のドアを開けると、タバコでモクモクの空間でMOTOHIROが一心不乱にスクラッチをしている。超うまい。目を他に移すと、目つきが鋭すぎる男が他に2人。彼らはラッパーだそうだ。怖い、あまりに怖い。そこで何を話し、何を得たのか、そこから記憶は定かではないが、そんな風にして自分のヒップホップ人生はスタートしたのだ。

高校時代にはDJを本格化させ、平松町のガストや不動前の宮ステーキでのバイト代でレコードを購入する日々。宇都宮にあった「ワルシャワ」や「NOW & THEN」。「スノーキーレコード」などに通い、週末は渋谷宇田川町に出向き、本物の空気に触れた。通販もしていて、毎週、渋谷の「マンハッタンレコード」、「DMR」、「CISCO」、名古屋の「ダウンステアレコード」、町田の「フリークス」、吉祥寺の「808レコード」からレコードリストが届き、オーダーしては針を落とす日々。人生でここまで物事に夢中になったのは、後にも先にもこれが初めてかもしれない。交友関係も広がり、今度は栃木中のヒップホップな奴らと相対することになる。困った。これまで以上に全員ヤンキーである。

栃木中の悪い奴のヒップホップコミュニティに迷い込んでしまった子羊こと、私。初めてのパーティー「記憶」では、チケットのモギリをした。DJデビューは「MU」というクラブで、がっちり組んできたルーティーンの「HIPHOP JUNKIES/NICE & SMOOTH」でつなぐタイミングを失い、当時仲良かったイナちゃんに繋いでもらった恥ずかしい記憶がある。

そんな感じで、ヒップホップにどっぷり浸かっていたので、「TOKYO TRIBE2」には相当に衝撃を受けた。ヒップホップのトンマナが貫かれた世界観。暴力と友情、音楽と深夜のファミレス。前作の「TOKYO TRIBE」においては、まるでラップ作品を聴いているような、アーティスティックな描写に突き動かされた。そんな感じで、「TOKYO TRIBE2」を見ると今も当時の熱量を思い出すのだ。

夏の夜。祭りの高揚感と刹那。それが「湘南純愛組!」である

ヤンキーに憧れていた。しかし、ヤンキーになれずHIPOHOPに傾倒したのは前項で書いた通り。そんな私の「ヤンキー像」を形成したのが、この漫画である。いわゆる「GTO」の前章。高校時代の鬼塚と弾間の青春一大スペクタクルである。バイクと喧嘩、友情と恋。

思い返すのは、宮祭り(毎年8月に開催される栃木一のお祭り。中高生や暴走族がその夜は宇都宮の中心地に介す)でのことだ。高校時代に、当時好きだったえみちゃん(出会いは記憶喪失)との、祭りの夜。高校も違う彼女と2人、初めてのデート。

彼女が好きだった。蒸し暑い夏の夜の熱気。祭りの音と、栃木中の全中高生がおめかしをして出てくる高揚感。全てに包まれていた。浴衣で訪れたえみちゃんの美しさと、恥ずかしげな顔が記憶に残る。オリオン通りを歩きながら、触れるも触れぬもわからぬ、互いの手の距離を察知し、心がざわついていた。

ハイライトはその後だ。原チャリの後ろにえみちゃんを乗せて、僕はどこかにいった(乗せた記憶はあるが、どこにいったかの記憶がない)。そんな甘酸っぱい記憶が蘇ってくるのが「湘南純愛組」である。

昨今、ドラマでのリメイクが発表されたが「今日から俺は!」の二番煎じであることは疑う余地もなく、俺の青春をレイプされる忸怩たる思いだ。観たいようで観たくない。そんな作品であった。

音楽の力を知った「BECK」という奇跡

ハマったのは大学時代。当時もHIPHOP熱はそのままに、アホで中途半端な大学生として日々を謳歌していた(レコード買ってただけだが)。そこで出合ったのが「BECK」だ。大学ってのは重要なんだなと改めて今思う。「船山くんてどこの大学だったの?」と聞かれることは多々あるが、答えはいつも「いや、なんてことのないバカだ大学ですよ…(声小さくなる)」だ。仕事柄、学歴やら育ちやらに接する機会が多く、その度に自分のメタ視点が「お前が何言うとんねん」と囁いてくるのだ。「BECK」とともに蘇ってくるのは、西国分寺に住んでいた大学1年生の時の子。初めての一人暮らしの部屋は、犬の寝床のように狭くて、全てが手の届く範囲にあった。そんな狭い部屋なのに、友人や彼女がくることも多く、今も活躍する某モデルさんが、友人の彼女として泊まりに来たこともあったっけ。

HIPHOP側の人間なので「BECK」に出てくる音楽にはあまりピンとこなかったが、主人公がギターに傾倒し、音楽に傾倒していく様が、高校時代の自分にリンクして、すごく感情移入したのを覚えている。偶然の産物ゆえの奇跡。出合ってしまった運命。世界を動かす音楽の力。全てが自分にハマり、夢中になって読んだっけ。アニメ化した際、幸雄の歌声がどう表現されるのかと注目したが、まさかの無音! こんな逃げ方もあるのか!と衝撃を受けたのも記憶に新しい。


という感じです。

もうおっさんだが、またこういう記憶に刻まれる漫画に出逢ってみたいものである。

#私を構成する5つのマンガ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?