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教育は、福祉だと思う。

福祉、という言葉を聞いたとき、高齢者福祉、障害者福祉、をイメージするのは私だけだろうか。高齢者や障害者の生きづらさを助ける行い、みたいなイメージ。福祉分野にまったく関心がなかったかつての私はそうだった。

ところが、このコロナ禍によって、すべての人の当たり前であった暮らしがぐらぐらと揺らぎ、すべての人に福祉的サポートが必要な事態になった。

それで、わりと明確に気づいたのだ。
福祉とは、ある属性の人だけが必要とするものではなく、すべての人が自らの意思決定に基づいて、安心して尊重された暮らし送る権利を、奪わないこと、なのではないかと。

このコロナ禍において、教育は特に、根底からその役割や意義を覆されたように思う。学校へ行くのはなぜか、学習指導要領をこなすべき対象は児童ではなく先生になってやしないか、校舎は必要なのか、宿題とはなんなのか、先生とは何をする人なのか。
教育って、誰のための、なんのためのものなのか、見失っていることに気づいた当事者がたくさんいたと思う。(気づかぬふりをして突き進んでいる人もまた、たくさんいると思うが。)

私が思うに、本来教育とは、自立した社会生活を送るうえで、できるだけ困ることがないように、生きる上で必要な知識や経験を装備するためのものであり、これはどストレートに福祉と言えるのではないだろうか。

だが、冒頭で書いた通り、学校教育が、福祉に包括されるものであると考えている人ってどれだけいるだろうかと、現状を見ていて思う。義務教育、という言葉が象徴するように、国民、大人に課せられた受けさせる義務であり、すなわち、今の仕組みは、主体が学び手ではないような気がするのだ。

繰り返しになるが、福祉とは、生きていくうえで必要な、ありとあらゆるものを、奪わないことなのではないかと思う。そう考えれば、てんでばらばらの個性を持つ子ども(人格を持つ人間)を統制するような教育は、やっぱりありえないはずなのだ。

子どもの権利を尊重しようという社会メッセージが発信されることがあるが、私は、それは、つまり人間の権利だよね、と思う。年齢は関係ない。生まれた時から(もっというとお腹にいるときからだと私は思うけど、これは混み入った話になるので割愛)、赤ちゃんにも大人と同等の尊厳と自由意思に基づいて生きる権利がある、と思うから、大人が子どもの権利をまもってあげますよ、というスタンスをみると、実は若干、違和感を覚える。

養育者である我々親たちは、子どもたちが生きる中で無限に発生してくる選択・決定の行いを、本人に代わってしているだけのことであり、その役割は子どもの成長とともに、どんどん縮小される。子どもは親にとっても社会にとっても、従者ではない。人間と人間、対等な存在なのだ、と思う。

健全な教育の場では、先生と生徒は対等なのだと思う。教え導くものがマウンティングしていては、私が思う福祉は侵害されることになる。
障害者福祉、高齢者福祉においては、ケアされる側とする側が、弱者強者の関係であってはならないという、理想とされる姿というか社会通念があるのだから、こどもにおいても同じ考え方が広まって、それが普通になってほしいと思う。

私は、社会福祉士になったら、スクールソーシャルワーカーを経て、学童っぽくない変な学童をやりたいと思っている。
それにあたっては、子どもたちが生きたいように生きることを、邪魔しない。環境整備に専念して徹底的に邪魔しない、大人でありたいと思うのだ。

いや、できねぇって。すぐに完璧になんかできるわけねぇって。

という声が、こうやって書いている自分の内側からも聞こえてくる。
そりゃそうなのだ。上下関係で40年近く育ってきた自分の価値観をアップデートするのは、簡単なことではない。ダメだと頭では理解していても、時に感情的に声を荒げて子どもたちを威圧してしまう。そして冷静さを取り戻すたびに、子どもたちに怒ったことを謝り「いいよ」と許してもらっているのである。私は完全に子どもたちに育ててもらっている。

そんなことを繰り返す回数がだんだん減っていくように。私が本当にありたい姿を見失ってしまうことがないように。

そんな思いから、この備忘録をはじめた。

まぁ…それにしても。
まだ大学に入学してもいない私の、福祉に対する仮説のようなものが、学びを進める中でどう変わるのか、変わらないのか、それがとても楽しみである。合格発表は4月下旬。


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