見出し画像

中学生はなぜ「ふつう」というのか

先日、単身赴任で離れて過ごしている中学1年生になる息子に、LINEで「お父さんに今週末帰って来てほしい?」と聞いたところ、「うーん。ふつう。どっちでもいいよ」と返信が来て落ち込んだ。

「ふつう」て。

まあ、そもそも、中学生ぐらいにでもなれば、親なんかよりも友人と遊んだりしたいというのは正常な発育だろう。むしろ、「なー、お父さん、早く帰ってきてー」とか言っている男子中学生なんて見たことがない。

でも、ならそう言えばいい。「今週末はいろいろやることあって相手できないけど、来てくれてもいいよ。でも無理して来なくてもいいよ」とか。

これを表現力のなさから「ふつう」と言っているのかもしれない。あるいは「別に来て欲しいとは思わない」と思っているのを、さすがにそこまで言うとお父さんも傷つくだろうから「ふつう」と言っているのかもしれない。

しかし、マザー・テレサも言っている。

「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」

「ふつう」というのは、なんとなく「好き」でも「嫌い」でもなく、「良い」でも「悪い」でもなく、どうとも思わないように聞こえる。つまり、「無関心」に聞こえる・・・。嗚呼。「愛の反対」。

息子よ(無関心ゆえ、おそらくこれを読むはずはないが)、「ふつう」って言わない方がいいぞ。

「来て欲しい」>「無理して来なくてもいい」>「忙しいから来なくていい」>「(なんらかの理由があって)来て欲しくない」の方が、「ふつう」よりはいいなあ。

とか言いながら、「来て欲しくない」の方が嫌かな・・・。

ともかく、「ふつう」という言葉を世界から無くしたいと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?