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荀子 巻第三非相篇第五 3

人の人たる所以の者は何ぞや。曰わく、其の辨(別)有るがめなり。(「荀子」岩波文庫 金谷治訳注)

所以→わけ。いわれ。理由。
辨→(弁の旧字)わきまえる。わける。処理する。
『人が人である根拠は何であるか。答えはわきまえるという気持ち(辨)があるのが人である。』
人とは何かと問い、わきまえのあるのが人だと答えています。先日3月7日に読んだ腹が減れば食べ物を欲しがる事など聖王禹も暴君桀も同じだという例を今回も出した後、人が人である理由は二足歩行をして毛がないということではなく、辨があるかどうかが違いだという説明をしています。暴君桀には辨が無く『人でなし』ということだと思います。
この後、狌狌(猩猩→架空の動物、二足歩行して顔に毛がないらしいです)を挙げて、辨があるのが人だと繰り返しています。

辨は分より大なるはく、分は礼より大なるはく、礼は聖王より大なるはし。(同)

分→③みわける。わきまえる。
分をどう訳してよいか分からなかったのですが、分にも「わきまえる」という意味があり、辨のわきまえると比較になるんだなと推測したのですが、金谷先生の訳を見ると「階級分別」とあり、自分の推測は誤りでした。間違るのが勉強、ですね。
金谷先生の訳を参考にしつつ、『辨(わきまえる)<分(階級分別)<礼(社会的規範)<聖王』という関係を、聖王が一番大きいことを理解しました。
聖王が一番大きいので聖王を規範にすれば良いということになりますが、たくさんいる聖王の中で誰から学べば良いのでしょうか?その答えが次です。

故に曰く、聖王の跡を観んと欲すれば則ちその粲然たる者に於いてせよ、後王是れなりと。(同)

『だから言う、聖王の事跡を学びたければその輝きが著しい人を選べ、それは後王だ。』
2月18日に読んだ「巻第二不苟篇第三 10」と重なりますが後王・今の王こそを学びなさいとし、近いところをもって遠いところを知り一をもって万を知り微をもって明(大)を知るというのはこういうことだと説明しています。

妄→①みだりに。むやみに。道理にはずれている。 ②でたらめ。いつわり。
道理に外れた人(妄人)は、昔と今では環境や状況が違うから昔のことは参考にならないと言い、一般大衆はこれに惑わされ欺かれてしまうが、聖人はだまされない、なぜなら聖人は自分という尺度をもって何事もはかるからだとしています。

以下ざっとした拙訳です。
『殷の時代より古い五帝の時代、それよりも古い時代の賢人が伝わっていないのは、賢人がいなかったのではなくただ古く(久しき)伝えられなかったからで、五帝時代の政が五帝以外に伝わっていないのも善政がなかったのではなく古く途絶えたからである。昔のことは略され大きなことしか伝えられず、逆に時代が近いことは詳しく小さいことまで伝えられる。
愚者は、略されたことを聞いて詳しいことを知らず、小さいことを聞いてそれの大きいことを知らない。』

以上長くなっていますが、大意を確認します。
何をもって人とするかと言うと、「辨」(わきまえ)があるのが人である。
「辨」の最大は、聖王にある。
数ある聖王の中でも、規範とすべき聖王は後王・今の王である。
今の王から学ぶことは、近きを以って遠きを知り一を以って万を知り微を以って明(大)を知ることである。
妄人は、昔と今では環境・状況が異なり昔は参考にならないなどと言い大衆は戸惑いだまされるが聖人はだまされない。
聖人がだまされないのは、自分を尺度として判断しているからである。
昔のことは略され大きなことしか伝承されていないが、最近の事は詳しく小さなことまで伝えられている。小人は今の小さいことをそのまま小さいことと思い込み、重大さに気づかない。

長くなりついでに愚見を少しだけ書いておきます。
ロシアのウクライナ侵攻について、日々詳しく小さなことまで情報が提供されています。愚人の私は、その情報からきちんと大きなこと、後々2022年に起きたこととして記憶されるような情報を見過ごさず把握できているのか不安です。
人としての辨(わきまえ)をもって、妄人の言に惑わされないように、自分の尺度をしっかりと持ち考えていきたいと思います。
辨や自分の尺度を持つには、まだまだ勉強が必要ですね。

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