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荀子 巻第十七性悪篇第二十三 10
繁弱・鉅黍は古の良弓なり。然れども排㯳を得ざれば則ち自ら正しきこと能わず。[斉の]桓公の葱・[斉の]大公の闕、[周の]文王の録、[楚の]荘君の曶、[呉の]闔閭の干将・莫邪・鉅闕・辟閭は、此れ皆な古えの良劔なり。然れども砥厲に加えざれば則ち利(鋭)きこと能わず、人力を得ざれば則ち断つこと能わず。[周の穆王の]驊騮・騹驥・繊離・緑耳は、此れ皆な古えの良馬なり。然れども必ず前に銜轡の制あり、後に鞭策の威あり、これに加うるに造父の馭を以てして、然る後に一日にして千里を致すなり。
㯳→ゆだめ。弓の形を整える道具。
劔→つるぎ。両側に刃のついたかたな。
砥厲→とぎみがく。また、つとめ励む。
銜轡→くつわと、たづな。法律。
鞭策→① むち。② (━する) むちで打つこと。また、はげますこと。
威→おどす。おびやかす。おそれさせる。
拙訳です。
『繁弱・鉅黍は昔の良い弓である。しかし排㯳がなければ自分で正しくなることはできない。斉の桓公の葱・斉の大公望の闕、周の文王の録、楚の荘君の曶、呉の闔閭の干将・莫邪・鉅闕・辟閭、これらすべて昔の良刀である。しかし研ぎ磨くことを加えなければ鋭利にはできず、人の力が無くては断ち切ることはできない。周の穆王の驊騮・騹驥・繊離・緑耳、これらはすべて昔の良馬である。しかし、前には轡と手綱で制御をし、後ろには鞭を打って励まし、さらに名人である造父の馭を用いることで、それで一日に千里を走るのである。』
夫れ人に性質の美にして心の辨知するものありと雖も、必将ず賢師を求めてこれに事え、良友を択んでこれを友とす。賢師を得てこれに事うれば則ち聞く所の者は堯・舜・禹・湯の道なり。良友を得てこれを友とすれば則ち見る所の者は忠信敬譲の行なり。身は日々に仁義に進みながら自ら知らざる者は、靡の然らしむればなり。今[若し]不善の人と処れば則ち聞く所の者は欺誣詐偽なり、見る所の者は汙漫淫邪貪利の行なり。身は且に刑戮に加(処)らんとしながら自ら知らざる者は、靡の然らしむればなり。伝に、其の子を知らずば其の友を視よ、其の君を知らずば其の左右を視よ、と曰う。靡のみ、靡のみ。
辨知→わきまえ知ること。思慮分別のあること。
忠信→忠実と信義。まごころを尽くし、うそ偽りのないこと
敬譲→相手をうやまって、自分がへりくだること。
靡→(注より)「靡」という字は本来なびき従う意味であるが、それからして後天的な環境が及ぼす感化薫染の影響力を意味する述語となっている。
処→おる。一定の場所にとどまる。一定の場所におちつく。
欺誣→あざむきだます。
詐偽→真実でないこと。いつわり。
汙漫→汚漫→けがす。けがれる。また、けがれ。
淫邪→みだりがましくよこしまなこと。度を過ごしてよこしまなこと。
刑戮→刑罰に処すること。 死刑に処すること。
拙訳です。
『人としての本質が立派であり心に思慮分別があるとしても、必ず立派な先生を求めてその先生に仕え、良い友人を択んで友とする。良い先生に仕えれば聞く話は聖王である堯・舜・禹・湯の道理となり、良い友人を見れば忠実と信義、相手をうやまって自分がへりくだる姿が目に入る。自分が仁義の道を進んでいるのにそのことを意識していないのは、賢師と良共に囲まれている環境による。今もし善くない人と居れば、聞くものは人をだます偽りであり、見るものは汚れ度を越して邪で利を貪る行動である。自分が刑罰を受けるところにありながらそのことを意識していないのは、善くない人に囲まれている環境による。古い言い伝えに「その人物のことを知りたければその人の友人を見よ、その君主のことを知りたければ左右の側近を見よ。」とある。周りの人が大切である。周りの人が大切である。』
良い弓を作るには㯳《ゆだめ》が必要であり、良い刀にするには研ぎ磨くことが必要であり、良馬にするには轡や手綱・鞭の道具の他に御者の名人が必要です。同じように人においても、良い先生・良い友人を持つことで磨かれて成長していきます。周りの人が大切です。
良い先生としてChat GPT、良い友としてゲーム、というのでは…。
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