荀子 巻第十三礼論篇第十九 3
太祖→②物事がそこから始まったおおもと。また、ある事柄の始祖。
常宗→大宗。大宗→①物事の初め。おおもと。また、ある分野での権威ある大家。
郊祭→郊祀。郊祀→天子が郊外で天地をまつる祭り。
社祭→土地の神の祭り。
覃→①のびる。ひく。およぶ。
卑→①ひくい。いやしい。(ア)地位や身分が低い。
宜しく→ちょうどよいぐあいに。程よく。適当に。
拙訳です。
『であるから、王者は始祖は天であるとして天を祭り、諸侯はまったくその宗廟を壊さずに、大臣たちはそれぞれの始祖を祭る。先祖を尊ぶことを分別の根拠として先祖を尊ぶことが徳の基となる。天地を祭る郊祭は天子のみが行うが、土地の神を祭る社祭は諸侯が行いそれは大臣にも及ぶ。身分が尊いものは尊いことを祭り、身分が低いものは低いことを祭る。程よく大なるものは大に、程よく小さいものは小にすることは分別の基となる。』
五乗の地→(注より)十里四方の土地を成といって革車一台を出すことから、五乗すなわち五台分の土地とは五成の地のことである。
流沢→恵沢を及ぼす。恵沢→恩恵。めぐみ。恩沢。
拙訳です。
『天下を治める者は七代の先祖に仕えて、一国を治める者は五代の先祖に仕え、五十里四方の土地を治めるものは三代の先祖に仕えて、三十里四方の土地を治めるものは二代の先祖に仕えて、自分の手により食を得る身分の者は祭廟を建てることが出来ない。功績が高いものは恩恵も幅退く得られ、功績が低いものは恩恵の幅が狭くなるのは分別の基となる。』
礼論篇の最初に、礼とは「養」であり、すでに「養」を得ている君子は「別」を好むとありましたが、「別」に対する記述はほとんどありませんでした。今回はその「別」についての説明になっていると思います。
以前にも書いたと思いますが、僕は「別」という考え方が苦手です。苦手なくせに好き嫌いで言うと嫌いではなく好きな方です。「別」が礼の基ですから、僕は『礼の考え方は苦手だけど嫌いじゃない』とも言え、ここまで荀子を読んだものとしてちょっと残念です。
なぜ「別」が嫌いじゃないけど苦手なのかをどう説明してよいか、自分自身で整理ができておらず、今日の荀子の言葉を契機にもう一度考え直してみます。
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