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荀子 巻第五儒王制篇第九 13 その1

水火には気あるも生なく、草木には生あるも知なく、禽獣には知あるも義なし。[而るに]人には気あり生あり知ありて亦たお義あり、故に最も天下の貴たるなり。力は牛にかず、走ることは馬に若かず、而るに牛馬の[人のために]用を為すは何ぞや。曰わく、人は能く群し彼れは群すること能わざればなり。人は何にりて能く群するや。曰わく、分[界]なり。分は何にりて能く行わるるや。曰わく、義なり。故に義以て分[界]すれば則ち和し、和すれば則ち一、一なれば則ち力多く、力多ければ則ち彊く、彊ければ則ち物に勝つ。故に宮室にも得て居るべきなり。故に四時を序し万物を裁(成)して天下を兼利するは它(他)の故なし。これが分義を得ればなり。

(同)

今日も意味調べからです。
分→③みわける。わきまえる。
和→②なかよくする。争いをおさめる。
宮室→帝王・天皇の宮殿。
四時→1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。
裁→②さばく。理非を正す。
兼利→利益を共にして、広く分け合う
拙訳です。
『水や火には気はあるが生命はない、草や木には生命はあるが知力はない、鳥や動物には知力はあるが義はない。だが人には気があり生命があり知力がありさらには義もある。なのでこの世で最も貴い。人の力は牛に及ばず走ることは馬に及ばないのに、牛馬は人の為に使われているのは何故か。人は社会集団を作れるが牛馬はできないからである。人はどうしてうまく社会集団を形成できるのか。それは分・わきまえることが出来るからである。わきまえることがどうしてできるのか。それは義による。だから義をもって分・わきまえれば和・仲良くでき、仲よくすることで一つになり、一つとなれば力が合わさり、力が合わされば強く、強ければ必ず勝つ。だから帝王の宮殿を得て住むことができる。四季の順番を整え万物の理非を正し、世の中の利益を共にして広く分け合うのに他の理由はない。分と義を得ることでなしえるのである。』
分を「わきまえる」としましたが、ふつうに「わける・階級分け」とした方がいいのかもしれません。スクール・カーストなどという言葉もありますが、個人的に階級付けということに抵抗があり少し和らげて「わきまえる」としました。

ここまでの理解をまとめます。

  • 人には、気・生・知・義があり貴い。

  • 個別の能力では牛馬の方が優れているところがあるのに牛馬を使役できるのは、人は「群(社会集団)」を形成できるからだ。

  • 人が社会集団を形成できるのは「分」をもっているからだ。

  • 「分」がうまく機能するのは人に「義」があるからだ。

  • 「義」+「分」=「和」をもって「群」をなし、「群(社会集団)」は個の能力を集め強くでき、結果必ず勝つ。

人は一人では生きられず「群」の中で助け合いながら生きて行くことを理解し、「群」の強さに感謝してはいるのですが、『群に疲れる時があるんだよな~。』などと思ってしまいます。
本日学んだところの「義」「分」の修養が不足していますね。伸びしろと切り替えてコツコツやっていきます。
続きは次回に読みます。

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