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カスミルのとしょかん(北条民雄「いのちの初夜」)

 皆様こんにちは。カスミルのとしょかんへようこそ。
 ここでは、隔週で私のおすすめの本や作品をご紹介したり、時にはこっそり雑筆を残したりしていきます。忙しない日常の事は少しだけ忘れて、どうぞごゆっくりお楽しみくださいね。

 本日ご紹介するのは北條民雄『いのちの初夜』より表題作「いのちの初夜」です。
 以下引用は角川文庫から出ている北條民雄『いのちの初夜』を参照し、引用ページ数のみ丸括弧で記載します。詳しい書誌情報等は最後にまとめて載せています。

 では早速。

◯作品の舞台、主な登場人物、梗概

 梅雨期に入る少し前の、「東京からわずか二十マイルそこそこの処」(5頁)でのお話です。
 主人公である尾田高雄が、癩病を患った為に、入院すべく病院へ向かう場面から話が始まります。
 病気の宣告を受けてからの尾田は、 癩病で死ぬくらいなら、病院に入るくらいなら、と事ある毎に自殺を試みますが、その度に何か別の心持ちがよぎり、思いとどまります。
 病院に着いた尾田は、佐柄木という癩病の患者に出会います。病院には尾田と佐柄木の他にも沢山の癩病の患者が入院していますが、その多くが重度の患者である為、佐柄木は、まだ軽度の患者である尾田を格好の話し相手であるとし、親交を深めようとします。しかし尾田は、自身が癩病である事、それにより入院せざるを得ない現状を未だに受け入れられず、またしても自殺をはかります。幸か不幸か未遂に終わるのですが、一連の出来事を目撃していた佐柄木は、尾田に「意志の大いさは絶望の大いさに正比する」(26頁)と説きます。病状が悪化しながらも生きる佐柄木と、「生きる態度」を定められずにいる尾田。そんな二人が会話を繰り返しながら、最終的に尾田が「やはり生きてみることだ」(44頁)という意志を持つ所で話が終わります。

◯個人的に思う見所


死ねない患者と、死なない尾田
 前述の通り、主人公の尾田は、何度も自殺を試みます。中でも特に印象的なのがこちら、入院後に縊死を試みる場面です。

縊死体というのはたいてい一尺くらいも頸が長くなっているものだともう幾度も聞かされたことがあったので、嘘かほんとか解らなかったが、もう一つ上の枝に帯を掛ければ申し分はあるまいと考えた。しかし一尺も頸が長々と伸びてぶら下がっている自分の死状はずいぶん怪しげなものに違いないと思いだすと、浅ましいような気もして来た。どうせここは病院だから、そのうちに手頃な薬品でもこっそり手に入れてそれからにした方がよほどよいような気がして来た。しかし、と首を掛けたまま、いつでもこういうつまらぬようなことを考え出しては、それに邪魔されて死ねなかったのだと思い、そのつまらぬことこそ自分をここまでずるずると引きずって来た正体なのだと気付いた。それでは──と帯に頸を載せたまま考え込んだ。(20頁)

死のうという思いを実際に行動に移してはいるのですが、いざ死のうとすると、どうしても「つまらぬこと」を考え出し、結局死なない事を選ぶのです。しかしこの場面は次のように続きます。

その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿いていた下駄がひっくり返ってしまった。
 「しまった」
 さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
 死ぬ、死ぬ。
 無我夢中で足を藻掻いた。と、こつり下駄が足先に触れた。
 「ああびっくりした」
 ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。いくら不覚のこととはいえ、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口惜しがりながら、しかしもう一度首を引っ掛けてみる気持は起こって来なかった。(21頁)

誤って下駄をひっくり返してしまうんですね。そのままだと無事(?)死ねるというのに、尾田は「しまった」と言い、死を回避すべく「無我夢中で足を藻掻」くのです。そして尾田は考えます。

心と肉体がどうしてこうも分裂するのだろう。だが、俺は、いったい何を考えていたのだろう。俺には心が二つあるのだろうか、俺の気付かないもう一つの心とはいったい何ものだ。二つの心は常に相反するものなのか、ああ、俺はもう永遠に死ねないのではあるまいか、何万年でも、俺は生きていなければならないのか、死というものは、俺には与えられていないのか、俺は、もうどうしたら良いんだ。(21頁)

死のうという心と、それとは裏腹にいざ死にそうになると冷や汗や動悸が止まらない肉体。しかしその心というのも不確かで、もはや死にたいのかどうなのか、本人ですらよく分からなくなっているのが、「俺は、もうどうしたら良いんだ。」に切実に表れているように思います。尾田は、死にたい思いを持ちながらも、死なない選択をし続ける存在であると言えるのではないでしょうか。

 そんな尾田とは反対に、他の癩病の患者は、死ねない存在として描かれているように思います。尾田や佐柄木以外に登場する患者は、ほとんどが重度の癩病を患っています。鼻の潰れた者、骸骨のように目玉のない者、夜な夜な神経の痛みを訴えながら泣く者、頭も全身も包帯に包まれた者、全身結節で荒れ果てている者。中でも印象的なのが、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とひたすら唱え続ける、全身を包帯で巻かれた患者です。その男を見ながら佐柄木は尾田に言います。

「あの人の咽喉をごらんなさい」
 見ると、二、三歳児の小児のような涎掛けが頸部にぶら下がって、男は片手をあげてそれを押えているのだった。
 「あの人の咽喉には穴が空いているのですよ。その穴から呼吸をしているのです。喉頭癩と言いますか、あそこへ穴を空けて、それでもう五年も生き伸びているのです」
 尾田はじっと眺めるのみだった。男はしばらく題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
 「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかいなあー」(39頁)

そんな彼らを、佐柄木は「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち(「いのち」に傍点)そのものなんです。」(40頁)と尾田に言います。「あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。」(40頁)
 斯様な死ねない存在としての患者を目の当たりにしながら、最終的に尾田は「やはり生きてみることだ」と強く思うようになります。ここでもやはり死なない事を選択するのですが、これまでのように死から逃れる形で生きる事を選ぶのではなく、ただ生きる事を選ぶようになっているのが、個人的に面白いなあと思う所です。

 書きたいことは粗方書けましたので以上にします。わはは。終わり方が雑ですって?違うんです、下手なんです、終わるのが。ご容赦くださいな。

 ではまた二週間後にお会いしましょう。

「生きるって素敵でしょ?」
自らの「人間」が亡びれば、あるいは亡びなければね。

◯書誌情報

北條民雄「いのちの初夜」(『文学界』2月号、1936年1月)初出、未見。
北條民雄「いのちの初夜」(『いのちの初夜』、角川書店、1970年1月15日)参照。

◯余談


 角川から出てる文庫で読んだんですが、あとがき書いたのが川端康成でいいなあ贅沢やなあと思いました。
 それでね、ちょうど日本近代文学館で川端康成展やってたのでこの前行ってきたんです。川端康成、いろんな人の弔事書いてるんですねえ。「葬式の名人」なるあだ名(?)があったと知った時はちょっと切なくなっちゃいました。
 そんな事をふと思い出したり。ね。はは。

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