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コンビニ人生を選択する若者のゼロリスク志向

この記事では、「恋愛できない人々」は2010年頃から発生したと書かれている。これには一応納得する。それは、まさにスマホ世代であるから。

ただ、それ以前からこの傾向は始まっていたと私は考える。それは、つまり「マニュアル世代」の登場である。

マニュアルがないと恋愛もバイトも仕事も勉強も部活も就活も友達作りもできない。これは、まさにゼロリスク=自分でリスクを取りたくない傾向の現れであろうし、それはそのまま「自分で考えない、考えたくない」ということだ。

すなわち、「オリジナルな自分の人生」=「めんどくさいアラカルトメニュー」を模索し、作ることを拒絶して、「手っ取り早いてんやものの人生」を生きる、という選択である。

これは現代人には誰しもある程度納得できる心理ではないだろうか? つまり、材料をいろいろ考えて買って来て、工夫して時間をかけてがんばって料理を作っても「おいしい料理」になるという保証はない。それなら、コンビニ弁当とか冷凍食品をチンした方が、失敗はないし、コスパもいいし、しかも、最近のコンビニ弁当や冷凍食品はそこそこ以上においしいのだ。

この比喩を、実人生に当てはめれば、20世紀末に流行った「自分探し」に失望、絶望したということではないか? がんばって試行錯誤して努力したって、実は大したオリジナルな充実した人生を送れるわけではないことに、みんな気づいてしまったのだ。「オリジナルなクリエイティブな人生」を見つけられるなんてのは、ごく一部の才能や想像力に恵まれた人間に限られるのだ。そして、その他の凡庸な大多数は、身の丈に合わない「自分探し」なんかしていたら、平凡な人生はおろか、落伍人生を送るはめにもなりかねない。だったら、「オリジナリティー」なんかなくてもいいから、「失敗しない人並みのそれなりの人生」を求むるに如かず。そういう真理に気づいてしまったわけだ。

それこそがゼロリスクの「手っ取り早いてんやものの人生」を生きる、というイマドキノワカモノの帰結なのではなかろうか?

考えてみると、「恋愛」というのもこの「自分探し」に似ている。

戦後、古くはGHQの施策によって欧米風の「自由恋愛」至上主義みたいな傾向が生まれたわけだが、この「自由恋愛」というのも、個性やある程度以上のコミュニケーション能力や趣味力とかがある選ばれた人々=「リア充」にしか謳歌できないものであるという残酷な事実が明らかになってしまった。

それ故、昨今の結婚の半数以上が「マッチングアプリ」によるのだそうだ。(結婚式では「友達の紹介」ということにしているが‥‥というブライダル業界人の証言がある)

要するに「お見合い」の復権であり、その意味では、恋愛、結婚に関しては大昔からゼロリスクの選択が求められていたのかもしれない。

ぶっちゃけ言ってしまえば、未だに学校なんかで奨励している「自我の確立」や「自己実現」なんてのも、欧米の個人主義文化の借り物にすぎなかった、ということか。

【おまけ】
考えてみたら、「自分探し」の時代にも「自己啓発本」が流行していたよねぇ。「自分らしさはこうやったら見つかります」なんて、結局マニュアルだよねぇ。どこが「自分探し」で「自分らしさ」なのかしらん?

要するに、日本人は、つくづく「自分で考える」とか「個の自立」とかが苦手で、「受け身」で「指示待ち体質」なのね。

そりゃ主体的な個人主義を前提としたデモクラシーが根付くわけありませんな。

さらに言えば、最近よく言われる「自由のはき違え」なんかも同根なわけで、「自由には責任が伴う」なんておっしゃるけど、そういうモラルの問題じゃありません。

「自由」はあくまで「個人の自由」なわけで、自由に伴うのは「個の自立」ですわ。

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