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 男が電話に出ると、落ち着いた口調で、
「お世話になります。冷蔵庫です。最近少し扉の閉め方が荒いように感じられます。とくに、半開きだったことに気づいたとき、あなたは料理をしながら後ろ蹴りで、無理やり閉めますよね。あれ、痛いです。痛いですし、存在をなんとも思っていないような感じ、嫌です。ついでだから言いますが、野菜室の隅に散らばってるキャベツの葉、いつ片付けるつもりですか? 落ち葉みたいな色になってますよね? 不快なので、できるだけ早く処理をしてください。私が怒れば、中の物がどうなるか、お分かりですよね?」
 すいません、と答える途中で切れた。キッチンを見ると、冷蔵庫がある。黒色のツードアタイプ、幅五十センチ、高さ一.二メートルのそれが、隅に置かれている。近寄り、男は側面に手のひらを置く。普段よりも熱かった。スマートフォンが震え、今度は洗濯機だった。
「うい。どう、調子? まあ元気そうだね。今日は相談てか、なんとかならんかなあってのがあって。あの、乾燥なんだけどさ。最近多用しすぎじゃない? 梅雨だからってのは分かるんだけどさ、正直、洗濯、すすぎの流れだけで疲れちゃうのよ。午前中曇りで、午後から雨みたいなときあるじゃん? そういうときさ、一回外干して、ある程度乾かしてから昼に取り込んで、そこから乾燥使ってくんない? それだけで労力全然違うんだわ。洗濯終わって、そのまま乾燥とかさ、フルマラソンしたあとフルマラソンするみたいなことだから、ワイナイナでも無理よそんなこと。ワイナイナ知らない? 赤坂五丁目ミニマラソンの。知らないか。君、若いもんね。まあ、そんな感じだから、あ、あと、蓋をバンって閉めるのもやめてほしいな。じゃないとロックかけちゃうよ」
 電話を切ると、男は窓を見遣った。雲が厚く、空がいつもより近くに感じられた。窓を開き、隣の家の庭木に目を向ける。室内から降雨を確かめるとき、水滴が目立つよう、いつも色の濃いものを見る。降っていなかった。洗面所で音が鳴った。乾燥を終えた洗濯機が、息を切らすようにボディをわずかに揺らしていた。中のものを取り出し、蓋を閉めようとして止める。手のひらで優しく押し、最低限の力で閉じる。
 腹が減った。男は冷蔵庫を開き、ろくな食材がないことに気づく。最近では仕事が忙しく、米を炊くのも億劫になる。思い出したように野菜室を開け、隅に散ったキャベツの葉を拾っていく。冷蔵庫の言うとおり、変色していて、焦げたようになっている。落ち葉みたいな、とは随分と控えめな言い方だと思った。キャベツの葉だけではない。トマトのへたや玉ねぎの皮、破れたビニール袋などもあり、もうなんの野菜かもわからない残滓が黄色くこびりついている。ひどいことをしているな、と思う。ひとつひとつ拾い、ウェットティッシュで見えるところは拭いた。レトルトの白米を電子レンジで温める。丼に移し、同僚に土産としてもらった明太子をのせ、チーズをふりかける。
 今日のように、一日に何件も要望が寄せられる日が時おりある。ともに暮らしている以上、すべては無理にせよ、可能な限り対応していくのがマナーだろう。一度、要望を完全に無視したことがある。液晶テレビからのそれで、たまにはリモコンではなく本体のボタンでチャンネルを切り替えてくれ、自分の体に使われない部分があったら嫌だろ? 怖いだろ? というもので、面倒だったので、無視した。二週間ほど経ったところで、リモコンでのチャンネル切り替えができなくなり、本体のボタンを押しても、まったく反応しなくなった。こちらから電話をかけることはできないので、謝る機会もなく、一ヶ月が経った。画面には、どこの放送局だろう、スクール水着を着た小太りの中年男が軽快なメロディに合わせゲップをする映像だけが流され、そのときには切ることもできなくなったので、電源を抜いた。直後にテレビから電話があり、これまでの強気な語調など嘘のようにか細い声で、ありがとう楽しかったあなたに見てもらえて幸せ、と言われたので再び電源を入れたのだが、もう反応することはなかった。このときの罪悪感が、今も薄ら残っている。
 箸で摘み、口に運ぶ。明太子とチーズと白米の相性は完璧で、この座組みを考えた人に、敬意を評したい気分だ。電話が来る。味わいを妨げられたように思い、苛立ちを抱えたまま通話に臨んだ。
「ねえ炊飯器だけど。あたしの存在理由ってなに? その程度だったの? レトルトのなにがいいの? 全然わかんないんだけどもういいわ、ああ空炊きしてるあたしいま、熱い、痛いよ、痛い、ねえ痛い」
 男は立ち上がり、炊飯器のもとに駆け寄った。触れると冷たく、またやられた、と思う。

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