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垂直考

細長い物体を垂直に立てる。それらの多くは自立しない。立つことはできても、その状態を長く保つことはできない。自立できないものをいかにして、垂直に立て、安定させるか。

垂直に立てようとはしているが、そのことに格別な意味はない。そもそも垂直に立てることは目的ではない。それが水平であっても、また、それ以外でも、なんら支障はない。これまで同様に制作の都度、選択すればよいことである。しかし、その選択がなければ、何事も始まらない。
それは、目的ではないが、制作の動機ではある。

垂直に立てるだけならば、方法は幾らでもある。細長い物体を支えるに充分な基礎を、溶接やボルト、あるいは接着剤などで接合すれば、かなり無理な形でも可能である。

また、基礎を目に見えなく、例えば、地中に埋めたり、容器で覆ってしまえば細長い物体は、それ自身で垂直に、あるいは自然に立っているかに見える。

その方法は、モニュメントや建築や活け花などの分野で多く採用されている。活け花で使用される剣山は、まさに、溶接やボルトの変わりとなり、目にみえないことを前提に、擬似の大地となる。

しかし、そのようにして接合された物体は、もはや自立しえない細長い物体ではない。一体として自立できる物体といえる。それは、自立しえない細長い物体を装って立つことであり、大いなる欺瞞と言ってもよいだろう。

細長い物体が垂直に立つためには、必ず、それを支える何者かの助けが必要となる。細長い物体と何者かが、求める形で垂直に立つためには、両者の間に、適切な関係が必要となる。それは過不足ない関係と言い換えることもできる。

過不足ない関係を成立させる条件は、まず、それを支えるものは、過不足なく、必要最小限でなくてはならない。そして、細長い物体と、それを支えるものが本来持つ資質、つまり、重量、硬軟、形状などの物理的特性で垂直を保たなければならない。

もちろん、接着剤や溶接やボルトなどの使用は、厳しく慎しみ、その支え合う構造は目に見える形でなくてはならない。

大地に杖を適切な力で押せば、その杖は垂直に立つ。必要以上に大きな力で押しつければ、それは無駄であるばかりか、時に杖を曲げ、過ぎれば折れてしまう。

また、杖は、土の大地であるからこそ、突き立てることができる。それが、コンクリートやアスファルトであれば、我々の目は、そこに、何らかの不必要な力や、隠された作為を見いだすだろう。

我々が手にする全てのものは、我々を試している。謙虚に誠実に、それらが導く方向に身を委ねさえすれば、常に、確かな結果をもたらしてくれる。

過不足なく支え合い、細長い物体が継続的に垂直に立つ、その時、目的ではない垂直に立てることが、制作の動機となり、目的となり、結果として、表現となる。


彫刻家であり、詩人であった飯田善國氏による「味岡伸太郎の世界 美の倫理」という一文がある。

味岡伸太郎の世界 美の倫理

味岡伸太郎の作品は80年代の「組成」シリーズの時代からシステムの発見に向ってひたすら作動してきたと言われている。その通りであろう。

「組成」シリーズの作品群は、作者の眼が、「表現」に向ってではなく、「自然の法則性」を見出し、それを何気なく束ねて行くその束ね方の非主観性・無作為性へ向けられているのを知らせてくれる。そのことが、ある爽かさを生み出してもいる。

20世紀の芸術が根本のところで、芸術家の個性を際立たせることに力点を置いてきたとすれば、現在は、その反動として、あるいは反省として、芸術家の個性の否定、あるいは個性を超えたものへの視点、といった方向へ向うのは自然の成り行きであろう。

味岡伸太郎の制作の基本は、作為性の否定という立場を貫くことに置かれてきた。

彼の目指す無作為性は、無作為性そのものが目的なのではなく、無作為性という態度を貫徹することで、自然の裡に匿されている法則性を見つけ出し、それをシステムとして体系づけるための方法としての無作為性なのである。

芸術家は自然に対し従順でなければならないが、だからと言って、従順で謙虚でありさえすれば自然はその本質を明らかにしてくれるかといえば、必ずしもそうではない。芸術家は、従順で謙虚でありつつ、更に、鋭い眼と巧緻な論理を備えていなければならない。

味岡伸太郎は、珍しくこの二つの特質を兼ね備えている。その結果、彼が促えてくる真実は、深く大きな体系をもつに到る。

どんな体系なのか。

原理的でありつつ宇宙的であること。時間的でありつつ、空間的であること。細部的でありつつ、全体的であること。自然主義的でありつつ、きわめて思想的であること。

表層的でありつつ、重層的であること。要素的でありつつ、人間的であること。無作為的でありつつ、構造的であること…など。

彼の自然に対する自然なこだわりは、近代主義に対するひとつの批判と成り得ているといえる。そこに私は厳しく美しい倫理の香りを臭ぐのである。


この文が書かれたのは、1995年、すでに20年が過ぎた。その後も変わらず、同じことを続けている。
2014.10.10 味岡伸太郎

表紙を開くと、和紙のたとうに包み、シート状の作品が26枚



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