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支点と質量による「水平考」
二つの自然石を任意に置き、その頂点の高さが等しくなるように調整し、その上に鉄板を置く。頂点の位置が鉄板を等しく二分割していなければ、鉄板は傾く。そこで、鉄板が水平となるように石を上に置く。
完成した作品はあたかも、鉄板と自然石のコンポジションに見えるだろう。
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私はコンポジションを「画面を構成する要素の量と位置とサイズを自由に変化させ、最終的には作者の目と感性によって、絶対的な量と位置とサイズを決定すること。」と考える。そこには、確立された自我の存在が不可欠だが、私は、そのようなコンポジション、つまり自我を無くした表現を模索してきた。
もちろん、鉄板を水平にすることが目的ではない。そのことに意味はない。しかし、そのことで、石の数や配置が必然的に決定され、私の判断がそこに反映されないことに意味を見出している。
現代の推進力はエゴイズム、つまり、人間の飽くなき欲望である。欲望の追求は深刻な環境破壊を招き、芸術の世界では、時に醜く、歪んだ表現を生んできた。エゴイズムは自我そのもの。自我の表現が長く芸術の目的であり、それは今後も変わらない。しかし、私は、自我を超えた存在としての自我の確立と、その確立した自我の表現を求めている。それは無作為の自我と言ってもよい。
![](https://assets.st-note.com/img/1682557411628-Wrp558Ad4B.jpg)
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