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小澤征爾さんの思い出① 初めての生オザワは歴史的コンサート

ちょうど連休を前にして公表された小澤征爾さんの訃報。連休にいろいろと用件はありますが、それでも暇があれば、走馬灯のように、時系列もランダムに、小澤征爾さんにまつわる思い出が、いくつもいくつも思い出されては、悲しみが募ります。
初めての1日を振り返ってみます。完全に長文の日記でしかないので、体験した本人しか面白くはないはずですが、このコンサートは動画でも見られると思いますので、オススメです。

1995年1月23日、この日が私にとっての「小澤初め」でした。CDや本を買い、アイドル並みに憧れの存在であった小澤征爾さん、そのコンサートに行けるのは東京の人だけで、東北の片隅の私には縁遠いと思っていたのですが、新聞で見つけた「小澤征爾さん32年ぶりにN響との公演」の記事、インターネットも普及していない時期ですから、電話でのチケット予約番号が記事は書かれていました。田舎の高校生だった私は、平日にチケット争奪戦をしている余裕がなく、親に電話かけを頼んだところ、このプラチナチケットがいとも簡単に手に入ってしまったのです。チャリティコンサートだったので、高校生には目の飛び出るような17,000円という金額だったことを覚えています。田舎の方が電話がつながりやすいとかいう話は本当なのでしょうか・・・。
高校の授業だったか部活だったか忘れてしまいましたが、それを終えた私は、学ラン姿のままで上野に向かう特急に乗り込み、一路大東京へと向かいました。親に聞いていた情報によれば、会場のサントリーホールは山手線でいえば新橋が近いのではないかということだったので(いまいち地下鉄のことは誰もわかっていない・・・)、上野で乗り換えた後は山手線で新橋へと向かいます。新橋からどういっていいのか、皆目見当がつかないので、仕方がないのでタクシーに乗り込み、サントリーホールへと伝えました。
都会の町中を走ったタクシーは、どういうわけかサントリーホールの地下へと入り、楽屋口に停まりました。まさか学ラン姿の私を出演者と思ったわけではないでしょうが、そのことで楽屋口がそこにあることが分かったのは幸運でした。そこから正規の入り口を探すのに一苦労しましたが。
東京でもコンサートも、サントリーホールも初めて、テレビで見たことがあるサントリーホールのステージを目にして、大興奮でした。さらに、そこに小澤さんがこの後登場するとあれば、こんな幸せなことはありません。
このコンサートは、小澤征爾さんが欧州での成功後の1962年にN響と共演を重ねた後、いわゆる「N響事件」で絶縁となり、32年ぶりの再会ということもあって、あっという間に完売となり、なんとコンサート自体がNHKで生中継されるという、とても大変なコンサートでした。しかも共演は巨匠にして小澤征爾の兄貴分ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。しかし、そんなこととはいまいちわかってもおらず、初めてのオザワ、サントリーホールに単純にワクワクしていました。

予定されていたプログラムは以下の通りです。

バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:小澤征爾

座席は2階席の割と正面で、とても良い場所。周りに見たことのある演奏家などがいて、少し興奮です。生中継の画面には大江健三郎や武満徹がいたようですが、会場では気づきませんでした。

一人で異常なまでの緊張の中、オーケストラが舞台にそろい、チューニングの音が静かになります。すると、予備知識として知っていた、小澤さんが扉の前で「コンコン」とする音が聞こえ、あこがれの人が出てきました。
演奏に先立ち、数日前に発生した阪神淡路大震災の被災者への追悼として、バッハのアリアを演奏するということを、小澤征爾さんからお話がありました。そして静かにアリアが始まりました。

初めての生オザワは、美しい鎮魂のG線上のアリア。染み入るようなゆったりと美しいアリアでした。拍手が沸いてもそのまま挨拶せずに一度退場した小澤さん。その後あらためて会場に姿を現し、コンサートが始まりました。
今では大好きなバルトークのオケコン、初めての耳にはなかなか衝撃的だったように記憶しています。でも嫌いではなかったので、その後もずいぶんCDで聞きました。
休憩後は巨匠の競演、ドボルザークのチェロ協奏曲。これは予習をしていったのですが、それをはるかに上回るすごい演奏でした。あまりにも素晴らしくて、アッという言う間に時間が過ぎてしまいました。
何度も続くアンコール、そして2人は客席に向かいます。ロストロポーヴィチからのメッセージを小澤さんが通訳。大震災のことを思うと、幸せな気持ちにはなれない、バッハのニ短調のサラバンドを演奏するということを述べ、演奏後は拍手をしないでくださいということ。
ロストロポーヴィチは椅子に座り、小澤さんは指揮台に腰を下ろして演奏が始まります。これはその時初めて聞いた曲でしたが、悲しく美しいチェロの響きを聞かせてくれました。
そして演奏が終わり音が切れると、そっと二人と団員が立ち上がり、自然と黙祷がささげられました。会場も水を打ったような静寂が包みます。結構長い黙祷ののち、静かに団員たちが舞台を下りていき、終演となりました。
初めてのオザワ、初めての東京のコンサートは、あまりにも印象深いものとなりました。

感動に震えながら、団員やお客さんが会場を後にするのをなんとなく見守り、最後の方になってようやく会場を出ました。
このまま帰らなくてはならないのですが、あまりのことに、足は先ほど知った楽屋口に向かいました。
どれほど待ったかわかりませんが、数十人のファンとともに待っていると、小澤さんがサインの対応をしてくれるということで、持参した「小澤征爾NOW」という本を持って、サインをしていただき、写真も撮っていただきました。高校時代最高の1枚となりました。

楽屋口で対応してくれた小澤征爾さん

そうこうするうちに結構遅い時間となり、急いで地元に向かわなくてはなりません。上野駅に行ってみると、もちろん特急の終電は終わり、それどころか各駅停車も途中までしか行かないことがわかりました。親に電話をして、なんとかそこまで迎えに来てもらうことにして(1時間以上かかるのですが)、各駅停車に乗り、深夜の駅にたどり着き、車にピックアップしていただいて、長いそして大興奮の一日を終えました。
小澤ファンとしての第1日、ここから29年、それこそ100以上の小澤さんのコンサートを見てきましたが、この日のことは絶対に忘れられない思い出になっています。

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