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自分軸とかいう言葉も苦手

だってそれって大抵「他人軸」ってことばと対(つい)になっていて。
いや他人を主軸に置いて生きるってどんなん。
って思うので。
みんな他者からの「影響を受けて」生きていることはあり得るけども
生きてんのは結局あんたの人生でしかないのよ。
ってハナシではと思ってしまう。
ジクジク言ってんじゃねーよ、「自分」と「他人」だろ、といつも"舌端から火を吐いて"おりますが。(ほんと口が悪い)

ジクジク話と並んで近年本当にミミタコ🐙タコー
なのが
「自己肯定感」
でたーーーー!🤣

いや、これについては良いです。
日本語的に変ではないので。
でも、コレに苦しめられている人のなんと多いことか。
自分を許してあげられない人って、そこらじゅうに沢山、いるんですよね。

以前、スタエフで『「私のせいじゃない」バナシ』をコネクリ回した際に話した(該当部分は開始56分あたりから)んですが

いわゆる「自己肯定感が低い」人は
自分で自分に言ってあげられないコトバを
先ずは意図的に他の誰かに渡していく
ということを繰り返していると
その思考がクセ付いて、
自然に口をついて出てくるようになって
延いて、自分にも向けてあげられるように
なるんじゃねーの

という「案」を思い付いたのです。

さらにその翌日、先述のトークをお友だちと更に反芻した時
「差別をやめられるようになること」についても話した(1時間37分あたりから)んですが

差別というセンセーショナルなキーワードを用いてしまっているので焦点がボヤけがちですが
本質的には「差別される側の人の立場に思い至ること」について言いたくて、
つまりは他者の個性の存在を認めることについて言いたかったのです。

両者に共通しているのは

【他者を肯定すること】。



一方で
私はよく、人の言動に「ツッコミ」を入れがちで。
それはなるべく、「ダメ出し」の色を帯びないように心掛けているつもりです。

私の感じる「違和感」を当人に教える、という範疇を踏み越えないように気を付けているつもりで、
その他者の「凝り固まり」の部分が気にかかるから、つい、つついてみたくなるのだと思います。
見て見ぬふりが出来ない性格でして、、、😅

でもそれは翻って、自分の中の『常識』を見つめることになり、
その「自分の常識」こそ凝り固まっていないか、と
反証し、反芻するところまでをセットにするよう気をつけています。

人の正義感や物事の是非の判断の根拠なんて、
ヤワヤワであることが殆どで
大抵、右ならえで「皆がそうしているから」を土台にしているだけだったりして

視野を拡げて、自分の知る世界をどんどん拡大していけると
他者って、肯定していくしかないというか
70億通りの個性を認めていかなくちゃねっていう
壮大な話になっていったりもします。

その広げ過ぎてしまった風呂敷を
ギュギューーっと畳んで私が提唱していきたいのが

他者肯定感

なのです。
圧倒的に、他者を肯定できる自分ってのを
自分で否定する方が難しいから
自己肯定していきたい方には
近道としておススメです。
どんどん、他者の在り方を肯定していってみてください。というご提案です✧˖◡̈⃝°˖*

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