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胸躍るままにブルースを_13(最終話)

八 仔牛のブルース

 あれから三年の月日が経ち、猿楽は長らくイギリスに発つことになった。

 バンド活動が終わってから猿楽は頻繁にイギリスへ行くことが多くなった。ボンゾーが脱退について話をしてくれたライブの入場曲で流したザ・ストーン・ローゼズの大ファンである猿楽は、彼らのライブを本場で観たいという一心でチケットを手配し、これまでに三回海を渡っている。

一回目の渡航時に空港の喫煙所で偶然出会った、同じくザ・ストーン・ローゼズの大ファンである紳士と意気投合し、二回目の渡航からはその紳士の案内でイギリス旅行を楽しんでいた。そして三回目、紳士の計らいで地元の有力なバンドメンバーと顔を合わせる機会があり、一緒に酒を浴びる程飲んだ。

酔っ払った勢いで「アイ・アム・ベスト・ベーシスト・イン・ジャパン!」と、そのパブで一番大きい声で叫び散らしていた猿楽を面白がって見ていたメンバーは、麻薬中毒治療の為にツアーに参加出来ないベーシストの代役を、紳士を通じて猿楽に依頼してきたのだ。

紳士から猿楽にその連絡があった半年前、彼は歓喜していながらも少々後ろめたさを感じていた。僕と二人だけで始めた活動があるから迷っているという、正に世迷いごとを相談してきたので、「家族がある今の僕には音楽に集中出来る時間が無い、いつか再始動する僕らの活動の為にも、そのチャンスを活かして是非最高の経験をしてきてほしい。」と背中を押した。

僕と猿楽はコーポラビッツが終わってからも頻繁に顔を合わせていたが、僕に家族が出来てからはその機会を作ることも難しくなってしまい、バンドをやりたい、音楽をやりたいという猿楽の胸の裡を思うと、僕の方こそのうのうと家族と過ごしていることが後ろめたかった。今回の猿楽の渡航について僕は本気で嬉しく思った、彼の音楽はまた動き始める。

 出発当日、僕は空港までのドライバーを兼ねて猿楽を見送る約束をしていた。いよいよ秋らしい陽気のその日、ゆるやかに吹いている風はすこしばかり冷たいが、羊の毛のような白い雲が澄んだ空にたなびく様子が美しく、まだ茜に染まるには早い陽のひかりは、羽織っていた薄手のモッズコートを暑く感じさせた。

 「俺、実はまだ仁君のこと心配なんだよね。」

 滑走路が見える展望台の喫煙室で二人で煙草を吹かしていると、飛び立つ飛行機を見ながら猿楽が呟いた。

 「何が心配なのさ?」

 「俺はこれから激流を登る。でもその激流は溺れ死んだって構わない程に夢憧れた、泥に流木に塗れた激流さ。でも仁君は澄んだ小川を泳ぎ続ける。」

 「何も危ない物なんて無いだろう?」

 「小川ってもんが危険なのさ。波が起こらなければそこに莫迦に美味いプランクトンなんざ流れて来やしない。いつも同じ餌、風が吹いて草木から落ちるのを待つ、生きる為だけの餌。もしそれに心底食い飽きてしまったらどうする?何に喜びを見出せばいい?そこには立ち向かうことで成長させてくれる天敵すらいやしない。いつも生きる為に生きる日々だ。」

 猿楽は目を合わせようとはしないが何時になく真剣な口調で語り、煙草を長めに咥えては濃くもくもくした煙をゆっくり吐いた。

 「仁君、頼むから音楽をやり続けてくれ、曲を書き続けてくれ、歌い続けてくれ。止めないでくれ。」

 「ありがとう、その言葉だけで十分だよ。」

 飛行機の轟音は閉めきった喫煙室の中でも聞えた。そこから見えるテラスの木造ベンチに、二匹の小さな赤蜻蛉が日向ぼっこしているのを見ながら煙草の火を消した。

 英語や中国語のアナウンス、絶え間ない喧騒、たまに何処の国の言葉か分からない怒鳴り声。数字と英語だらけの大きな出発予定表の下、別れの時に猿楽はずっと持っていたギターケースを僕に渡した。

 「脚が不自由な人にここで渡すのも難だけど、これ、預かっていてほしい。」

 ゆっくり足元に下ろしケースを開けると、ピックガードに木の実を啄む小鳥が美しく描かれたアコースティックギターが入っていた。猿楽が長年愛用しているギターだ。

 「仁君、このギターの音好きだったろう?あっちに着いたらベース以外の楽器を暢気に弾いてなんかいられないからさ。可愛がってやってよ。」

 巧く笑えたかは分からないが、心の底からお礼を伝えた。

 そして猿楽は「じゃぁ、またね」とだけ言って笑い、恋焦がれた激流へ飛び込みに行った。これまでの人生を音楽に身を捧げた僕は一度も海外旅行など行ったことがなく、慣れた様子であっという間に発った猿楽に感心しながら、先程よりも大きな音で聞えるアナウンスや喧騒の中にしばらく立ちすくんでいた。

 やがてグレーのブレザーを纏った可愛い女の子が「車椅子を御用意致しますか?」と声をかけてきてた。少し見蕩れてから空港職員だと気が付き、「いや、結構です、ありがとうございます。」と笑ってギターケースを持って歩き出した。立っている姿だけでは僕が義足だということは判る筈がなく、おそらく猿楽と歩いていた時から気にかけてくれていたのだろう。そう思うと少し胸が暖かくなった様子で車を停めた駐車場へエスカレーターを下っていった。

 車へ乗る前に駐車料を払おうと精算機へ向かう途中、ターミナル内から屋外の駐車場へ続くエスカレーターを下った先の開けたスペースでふと立ち止まった。

今降りてきたエスカレーターと、北ウイング、南ウイングへ向かう左右それぞれに伸びる道、そして駐車場へ続く直進方向の道が交差する分岐点となるこのスペースには、其処を覆うように、ふわりと曲線を描いた雨避けテントのような白く大きな屋根が設けられていた。

その様子を見た一瞬、夏の音楽フェスティバルや世界的に有名なビッグバンドの特設ステージが連想された。広大な敷地に大きなステージが組まれ、そのステージの上に立った四、五人が楽器を持って立ち、地鳴る程の大音量で演奏し、唄う。海上を荒れ狂う波の様な人々が、汗をかいて、我を忘れ、熱狂に在るがままを投じてバンドと一体化して音楽に溶け込む、その舞台をどれ程夢見たであろうか。

どれ程憧れ、そしてどれ程信じただろうか。恥じを捨て語るのならば、その舞台に立つ自分を観客席から見つめる自分の大切な人の様子まで鮮明に描いていた。

 僕は居ても立ってもいられなくなり、先程猿楽から預けられたアコースティックギターをケースから取り出した。そして、分岐点の真ん中に設置された円形の木造ベンチを選び、ターミナルを背に、駐車場側を正面に向いて腰掛けた。オリンピックに向けて設置されたというその円形の木造ベンチ中央には、季節の花々が色とりどりに植えられる予定らしく、まだ準備に取り掛かっていない花壇には「完成予想図」と書かれた美しいイメージ画像をラミネートしたものが二本の割り箸を支えに植えられていた。

 右脚の踵を地面に付けたままで、足の平を上下に動かし四分の四拍子を刻む。リズムに沿って左手の中指と薬指をギターの高音フレットをスライドさせるのと同時に右手の人差し指と中指で弦を弾く。

ゆっくり、ゆっくり、メロディーの始まりまで前奏を繋いでゆく。唄い始め声を出したその直後一気に低音域へ左手を移動させ、右脚のリズムに合わせて低音を基点とした伴奏を刻む。時々歌のメロディーの隙間を埋めるように瞬時にギターを高音で引っ掻き鳴らし、また瞬時に低音を基点とした伴奏に戻る。

唄う物語は何でもいい。

旅に疲れ果てた末に廃墟のホテルで愛するものを確かめた少年の歌、

口ばっかり達者なペシミストに恋したマザーメアリーの不運、

秘密の恋を切り売りして貧相な男をヒールで蹴飛ばすバレエダンサーの末路、

嘘から滴る涙にエクシタシーを覚え目尻が歪んだ不倫男の恋、

友に裏切られ濁流に飛び込もうとする聖者の葛藤、

悪魔に魂を売った罪で無期懲役を命ぜられたマヌケのバラッド・・・。

生きた記憶と生きる日常が混在して物語になり、半永久的に続くフレーズの節目となるアクションに合わせ韻が決まる。

語る様に呟き、嗤う様に嘆き、叫ぶ。僕が唄いたい歌はこんな歌。

僕が胸躍らせてしまう歌はこんな歌。健全で順風満帆な人生を楽しむ奴には絶対唄えない、深夜の物置き部屋で黴臭い壁に向かって唄うこんな歌。

ふと気が付くと、先程展望デッキのテラスで見かけた二匹の赤蜻蛉が飛んでいるのが見えた。すると少し肌寒い風がふわっと吹いて、焦げ茶色の落ち葉と共に、鳴り響く音色の中を高く昇っていった。




 ―若い警官は聴こえてくる音を追った。

 貨物を運ぶ大型トラックが揺れる音、飛行機が滑走する時のエンジン音、人の声、バスやタクシーが足早に走る音、様々な音が入り混じるこの空港という敷地で、周りの音が一切遮断されるかのようにこんなにはっきりと音楽が聴こえるなんていうことなどあるのだろうか?まるでその音楽の演奏者と自分だけが目の前の景色から切り離されたような感覚に陥るほど鮮明に聴こえてくる。

 次第にその音が鳴る場所へ近づくにつれ、かなりの人だかりが出来ていることに気が付いた。そして皆が随分騒々しく、そして混乱めいていることを認識した途端、鳴り響いてた筈の音はピタッと止まった。

只事ではないその様子から、若い警官は慌ててその人混みを掻き分け、皆の注目の的があるのであろう輪の中心へ入ってゆくと、そこには肩で息をする同僚の警官が脱力したような様子で立ち尽くしていた。

自分の監視するエリアから急いで走ってきたのだろうか。声をかけると力無くこちらを振り返り、呆れ切った様子で笑った。

 「ブルースマンを見つけたよ」

 そう答える同僚の先には、拳銃と、木の実を啄ばむ小鳥が描かれたギターが地面に転がり、円状の木造ベンチから崩れ落ちた様な体勢で、モッズコートを着た男が顳顬から血を流して倒れていた。―


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