秋されば、朝ぼらけ
「よし、行くよ」
娘に声をかけ、扉を開ける。ひんやりとした風が、わたしたちの身体を包む。
階段を降りて、近所の畑の脇道を通りながら、「これはカボチャだね」「あ、ナスビが育ってるね」なんて言い合いながら歩く。さらさらと流れる、古民家沿いの用水路の水の音が、耳に心地いい。
しっかりとわたしの手を握っている娘の手は、ふわふわとしていて、小さくて、そしてびっくりするくらい温かい。わたしもほんのわずかに、握りしめる手に力を入れる。この小さな手の温もりを、大切に、抱きしめるように。
二人で同時に空を見上げた。
風に引きちぎられたような、かきたま汁の卵のような薄い雲たちが、空を彩っている。もう秋だなあ、と思う。
ずっと暑かった今年の夏は、秋分の日を境にして突如終わった。びっくりするくらいわかりやすい、その季節の変化に、みんな苦笑いが止まらない。
「寒くない?」と、自転車の後ろに座っている娘に声をかける。「うん」と娘は心ここにあらずな感じで返事をする。チラリと後ろを見ると、彼女はぼーっと流れる景色を見つめていた。
「あ、ママ、彼岸花あったよ!」
突然、嬉しそうな声が後ろで弾けた。
「青い彼岸花はやっぱりないねー。ママ、彼岸花って赤しかないの?」
鬼滅の刃が好きな娘は、最近、鬼舞辻無惨が探していた「青い彼岸花」を探しているらしい。
「せやなぁ。彼岸花は、赤だけなんちゃうかなぁ?もしかしたら、白とかあるんかもしれへんけど、ママは見たことないなぁ」「そっかぁ」
そんな、なんでもない会話を時たま交えながら、自転車を漕いでいく。山沿いの道を通ると、山の木々が色づき始めているのに気づく。風のなかに、秋に熟成された山の匂いがする。その風を、胸いっぱいに吸い込む。
空を見上げると、比叡山をバックにトンビが青空を旋回していた。どこまでも突き抜けるような真っ青な夏は終わり、秋の空はほんのりと薄白いベールがかかったように見える。そんな空が、風が、わたしはたまらなく好きなのだ。
次の春が来たら、娘はもう小学生になる。通い慣れたこの道を通るのも、後、半年。そういえば、小学校になったら自転車で送迎することもなくなるのか。
愛しい時間、大切な時間だな、と思う。
ふと、わたしが母に保育園に送ってもらっていた朝のことを思い出す。
平安神宮の前を通るとき、いつも、「平安神宮さん、今日もおはよう!」と挨拶をしていた。二人で歌を歌ったりしながら、母は時たま自転車の後ろに座っていたわたしの手をぎゅっと握っていた。
あの頃から25年経ち、わたしも娘に同じことを無意識にしていることに気づいて、胸の奥の方がキュッとなった。
痛みにしてはほろ甘いその痺れの正体を、わたしはもう、突き止めようとは思わない。ただ、娘がこの先の未来で、今のわたしのように、こんな何気ない日常の、光や、香りや、肌に触れる空気の温度を、ふとした瞬間、愛おしさと懐かしさをもって、やさしく撫でてあげるような瞬間が、あればいいな、と、願う。
祈りはいつも、シンプルなものなのだ。
そして、こんな何気ない日常を、やさしくなぞっていくと、腹の奥から、感謝が湧き出てくる。生きていてよかった、と思う。しあわせで、豊かだな、と。
その瞬間を、あなたと共有できて、しあわせでした。ありがとう。
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