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8.エブリデイ後ろ向き。/朱に交われば紅くなる

本編

 沈黙。

 こうやって三人が揃ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。本来ならばこの状態までもってくればミッションは達成だったはずである。

 しかし、今。どう考えてもこの状況のまま放置するわけにはいかない。紅音(くおん)自身が何の関係ない目撃者Aなのだとしたら、何食わぬ顔をして立ち去り、後日冠木(かぶらぎ)から話を聞けばいいだけのことで、簡単な話だ。

 だが、今回に限ってはそうはいかない。

 何故なら月見里(やまなし)は、紅音がここにいて、話を聞いてくれることを強く望んでいる節があるからだ。

 それに加えて、どうも彼女は紅音を心のよりどころとしている節すらある。

 ここに来るまで、結局彼女は一度も紅音と目を合わせてくれなかった。それは紛れもない事実である。

 そこだけを切り取れば、彼女にとって西園寺(さいおんじ)紅音というのは警戒対象であるという解釈をすることが出来る。

 問題は、この「目を合わせない」というのが冠木相手にも適用されている、ということだ。

 どころか、最初のうちは、紅音を盾にして、その後ろから覗き見るのがやっとだった。

 これに関しては紅音にも否がある。

 正直に言おう。冠木の着替えに遭遇した際、紅音は一瞬……いや、暫く思考が停止してしまったのだ。

 情けない話だ。普段から女性というよりは男友達のような感覚で接しているものだから意識から抜けがちだが、冠木も立派な大人の女性なのだ。

 胸こそないものの、スタイルそのものが悪いというわけではなく、むしろスレンダーというカテゴリに分類されるそれは大変に美しく、

 違う。

 そんなことを考えている場合ではない。

 今重要なのは、そんな光景を目の当たりにしてしまったせいで、月見里を一人置き去りにしてしまった、ということなのだ。

 もちろん、月見里は女性だし、確認はしていないが、同性愛のケもないとみている。

 なので、いくら(ほぼ)初対面とはいえ、着替えを目撃してもなんら問題はない、はずなのだ。

 その目撃者が月見里朱灯(あかり)その人でなければ。

 沈黙。

 そんなわけで、今三人の周りにはなんとも言い難い空気と、痛いほどの沈黙が漂っているのだった。

 流石にこれをそのままにしておくわけにはいくまい。

 恐らく。二人からアクションを起こすのを待っていたら相当時間がかかるのは請け合いである。

 こういうとき冠木はあまり頼りにならない。

 彼女の生徒と接するスタイルはあくまで、相手がきちんとこちらに向かってきてくれる場合にのみ、通用する。極端な話、敵意を持っていてくれても問題はない。

 自分の方に向かってきてくれる方がやりやすいのだという話を前に彼女から聞いたことがある。

 そして、残念ながら、月見里はそのタイプではない。

 冠木の得意とするのが向かってくるタイプなら、月見里は全力で後ずさっていくタイプだ。

 それこそ退路があれば撤退を選び続けるし、背後がガケでも場合によっては飛び降りてしまうほどの性格だ。

 その彼女相手に冠木が話しかけても逃げて行ってしまう一方でらちが明かないのだ。事実何度か話しかけることを試みているのだが、

「あの、月見里さ」

「すみませんすみません!」

 会話が成立せずに、今に至っている。

 もちろんこの場合の謝罪は「着替え中に入ってしまってすみません」である。

 状況を考えれば、何も連絡を入れずにのこのことは言ってしまった紅音と、学生相談室で、しかもカウンター内で堂々と着替えを敢行していた冠木のどちらか、あるいは両方に否があるのは間違いがないのだが、彼女はそうは捉えないらしい。

 その証拠が、

(三人分あったんで……ねえ)

 今三人の手元にあるお茶である。

 名前を「よぉ~いお茶」という。

 大手メーカーの有名ブランドだから、それこそちょっとその辺の自販機や、コンビニを探せば見つかるレベルの、いわば「どこでも手に入る缶入りのお茶」である。

 それが今、三人の手元に備えられている。持ってきたのはもちろん、月見里だ。

 彼女の説明はこうだ。

 うちに沢山届いてしまったんだけど、飲み切れないので、持ってきた。飲んでもらえると嬉しい。

 自分の分も持ってきたけど、ぬるくしてから飲むのがスタイルなので、まだ、飲まないが、二人(紅音と冠木だ)はどうかきちんと冷たいうちに飲んで欲しい。

 そう主張して、彼女は鞄から取り出した三つの缶を三人の手前(畳の部屋なので、引っ張り出してきたミニテーブルの上だ)に置いたのだ。

 ちなみに以降彼女は自分の分と称した缶には一切手を付けていない。

 これを冠木は「あ、ありがとな」と感謝を伝え、口をつけた。

 紅音もそれに倣って口をつけ、八割がたを飲んだうえで、その缶をミニテーブルの上に置いてそのままにしてある。

 彼女の説明にはいくつか嘘がある。

 まず、このお茶だが、恐らくは家から持ってきたものではない。

 確信はない。もしかしたら彼女は鞄の中に保冷剤でも仕込んでいるのかもしれないし、それを今確認することは出来ない。

 ただ、もしそうでなかったならば、このお茶は「冷たすぎる」のだ。

 朝霞の弁によれば、彼は、放課後になってからすぐに彼女に声をかけたらしい。そこに関しては事実だろう。朝霞はそんな簡単な、そして意味のないところで嘘をつく人間ではない。

 一方で、その後の行動に関しては一切説明されていない。

 「途中でお茶を買った」なんてことまで説明するほど朝霞は親切な人間ではないし、なんなら月見里から口止めをされたかもしれない。そうでなければこのお茶は冷たすぎるのだ。

 保冷しておく手段を用意しない限り、家から持ってきたお茶がここまで冷たいというのは考えがたい。

 ちなみに今日は、四月にしては珍しく暖かく、昼の最高気温は夏日といえる25℃を越えていたというから、何の対策もせずに、朝から鞄にいれたままになっていたのであればきっとぬるくなっていたに違いない。

 そして、恐らくは彼女の手前にあるあの缶。彼女は自分で飲むために持ってきたと語っているが、恐らくはこれもノーだ。事実彼女は缶を開けることすらしていない。

 これは紅音の勝手な想像だが、あれは「どちらかが飲み終わってしまった時に差し出すための予備」なのではないだろうか。

 そんなことがあるはずはないと思うかもしれないが、事実紅音が一気に半分くらい飲み終わった際、彼女はその手にお茶の缶をしっかりと両手で持っていた。

 そして、喉が渇いていたのかと聞き、紅音がまあ、それなりと答えて、手元の缶をテーブルに置いて暫くすると、彼女もまた、缶を置いたのだ。

 勝手な解釈なので間違っている可能性はあるし、「足りなかったらどうしよう」と思って見ているだけだったのかもしれないが、恐らく紅音が残り二割あるかないかのお茶を飲み干すと同時に、自分の分という設定だったはずのそれを差し出してくるのではないだろうか。

 そして、ここから二つの結論がはじき出される。

 彼女・月見里朱灯はかなり気の回る人間であるということ。

 そして、その思考回路の根幹には「自分が悪いのではないか」という考えが巣食っているということだ。

 前者はともかく、後者はほとんど紅音と真逆と言っていい思考回路だった。

 紅音ならまず間違いなく相手が間違っている可能性を考える。

 足して二で割ればちょうどよさそうだ。

 と、まあそんなことを考えていても仕方がない。取り合えず月見里には相談話を切り出してもらわなければならない。そのためには、

「あっ……」

 一番簡単な方法は、やっぱりこれだろう。紅音は手元のお茶をぐいっと飲み干す。これで仮説が正しかったのかもはっきりする。

 紅音はコンとわざと音を出して缶をテーブルに置き、

「ごっそさん。美味かったよ」

 さあ、その反応はいかに。

「そ、そうですか……あの、よ、よかったらこれもどうぞ」

 ビンゴ。

 月見里は即座に自分の前にあった缶を差し出してきた。やっぱりわざわざ用意したものと見てよさそうだ。紅音は両手で断り、

「いや、いいよ。それは月見里が飲んだらいい。せっかく三つあるんだし。俺が二つも取ったら悪いよ」

「そ、そうですか?」

 今だ。紅音は強引に話を切り出す。

「それよりもさ、相談。あったんだろ?」

「そ、それは……」

 迷っている。ここまで来る勇気は、先ほどの騒動で使い切ってしまったのだろう。
要は「熱が冷めて、冷静になってしまった」のだ。

 この場合は「冷静になっていつもどおりの後ろ向きになってしまった」と言ってもいいかもしれない。

 ただ、それでは話が進まない。紅音は続ける。

「大丈夫だよ。この人はちょっと……いや、かなり頼りないように見えるかもしれないけど、こう見えて……やっぱり頼りないんだぞ!」

 流石に黙っていられなくなったのか冠木が、

「おいおいおいおい、持ち上げてくれるんじゃなかったのか?」

 紅音はそんな冠木の抗議をガン無視し、

「頼りない。頼りないけど……でも、話はちゃんと聞いてくれるし、馬鹿にしたりなんか絶対しない。それは俺が保証する。それとも、俺の保証じゃ駄目か?」

「西園寺……」

 なんか久しぶりに苗字で呼ばれた気がする。そんな一連の説得を聞いた月見里は、

「分かりました。そのために来たんですもんね」

 と、軽く微笑み、目を瞑って、深呼吸。

 やがて、ふっと目を開けて、冠木の方を見て、

「先生」

「は、はい」

「相談があります」

「ど、どうぞ」

 どうやら肝が据わったらしい。むしろ冠木の方が緊張しているまである。

 暫くの間が空いたのち、月見里が、

「私、友達が欲しいんです」

 そう宣言した。


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