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【調査記事】「新々刀」の名付け親をさがして ~ジャーナリスト中島勝義と日本刀~

「新々刀」という言葉が初めて世に出たのは、もしかしたら121年前の今日、8月3日のことだったかもしれない


①そもそも事の発端は

今年の4月~5月頭にかけてのことだったと思います。国立国会図書館のデジタルコレクションで新々刀について調べていたところ、考古学会が1903年9月に発行した「考古界」という学会誌の中で「新新刀の上上作」という文章を見つけました。

余は、安永以後の刀劔を新新刀と呼ばんと欲するものである、何となれば新刀辨疑の出版及び川部水心子正秀の初めて世に顕はるゝと共に安永年間に在り新刀一新の氣運は實に此時に於て萌したことを認むるからである、看よ其後七十餘年嘉永三年に編輯されたる新刀銘集錄は世に所謂復古刀即ち我が新新刀押し形を以て其紙面の大半を埋められてあるにあらずや、而して新新刀の泰斗水心子正秀及其の弟子の作刀は辨疑にも掲げられ又た盡く銘集錄にも掲げらるゝ、新新刀の水心子正秀は丁度新刀の明壽國廣の如く古刀銘盡にも其名を載せられ又た新刀緒書に於ても新刀の始祖として待遇せられ居るに似て居る、

た、ま、「新新刀の上上作」
考古学会「考古界 第參篇第參號」所収, p161-162,  集成堂, 1903. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11185659 (参照 2024-07-30)

筆者の「た、ま、」という人物は「江戸時代の安永年間以降に作られた刀剣を新新刀と呼んでほしい」と主張をしています。
鎌田魚妙によって「新刀辨疑」が出版され、刀鍛冶の水心子正秀が世に出た安永年間こそが刀剣の時代の変革期であり、また水心子は「新新刀の泰斗」…つまり先導者あるいは大家である、と。

②「日本刀大百科事典」および「日本刀」の記述によると

ここで平成初期に刊行された福永酔剣の「日本刀大百科事典」にあたってみます(同書が世紀の超大作であることは大前提であるとして、出典ミスや情報の取違いが見られることはたびたび指摘されています。しかしこのように調査のとりかかりとして読み込むことが多いです。いつもお世話になっております…)。

しんしんとう【新々刀】
安永(1772)ごろから、大正年間までに造られた刀。明治45年刊の「剣話録」(今村・別役著)までは、新々刀という項目はない。大正三年刊の「日本刀(本阿弥光遜著)になって、初めて新々刀が新刀と区別され、説述されるようになった

福永酔剣「日本刀大百科事典」3巻, p86, 雄山閣出版株式会社, 平成5年 

今村・別役というのは今村長賀別役成義のことです。いずれも近代の刀剣界の勃興・発展に並々ならぬ貢献をした偉大な研究家です。
「剣話録」とは明治31~36年にかけて、二人が東京府(当時)の靖国神社境内遊就館で行った講話を文字起こしして書籍化したものです。

福永によると、この本では新々刀の定義は用いられておらず、初めてその区分が登場したのは大正時代になってから。本阿弥光遜の著書「日本刀」がその初出であると述べています(光遜氏といえば、わたしの中ではもっぱら「兼光は梅、長義は桜」を提唱した方ですね。大変雅で大好きな表現です)。

では、光遜の日本刀を確認してみます。

本阿弥光遜「日本刀」第4版, 南人社,  p36(部分)~p37, 大正6年(※筆者私物を撮影、著作権保護期間満了)

私物の本を撮影し、該当の部分にフォトショ上でマーカーを引いてみました。
光遜は水心子正秀を「慶長以後の新刀の鍛工が到底企て及ぶべからざるの伎倆を示した」と評し、刀剣界における「革命者」「大教育家」と認識しているようです。
江戸の水心子と、土佐出身で京都を中心に活動した南海太郎朝尊、この二人とその弟子らによる絶大な影響が及んだ時期を新々刀とカテゴライズしていますね。

「た、ま、」も光遜も水心子正秀以後に製造された刀剣を「新々刀(新新刀)」と呼んでいる点では共通しています。

ここで確認してみたいこと、知りたいことが生まれました。

「新々刀(新新刀)」は、いつ世に出た言葉だったのか?
「た、ま、」とは何者か?


文献調査を進めていくと「新新刀の上上作」はどうやら東京朝日新聞(現在の朝日新聞)の再掲らしいということがわかってきました。

③た、ま、と東京朝日新聞「刀剣談」

明治36年8月4日の東京朝日新聞朝刊に「刀剣談(2)新新刀の上上作(中の1)」というコラムが掲載されています。
筆者は「た、ま、」。前日8月3日から始まった連載記事のようです。
確認してみると、冒頭で紹介した学会誌とまったく同じ文章が載っています。

つまり光遜によって新々刀という区分が紹介される11年前に「た、ま、」によってその言葉は世に問われていたようです。初代水心子の没年は1825年のようですので、没後100年も経たないうちから彼が新々刀の先駆けであると論じられていたことが分かります。

④刀鍛冶の格付けランキング

「番付」とは本来、力士の位階表のことですが、江戸時代後期にこの番付を模した「見立番付」というランキング表が大都市を中心に流行しました。テーマは多岐にわたり、刀剣や刀鍛冶をテーマにした見立番付も複数存在しています。
「た、ま」のコラムは、そもそも「江戸時代の文化年間以降の刀剣位階はどのようなものか?」と刀劍會(※後述)で起きた議論を紹介するものでした。発議者である今泉賛亭という人が下記の八人を選び「上々作八家」と名付けたと記されています。 

第一 川部八郎水心子正秀
第二 山浦環源清麿
第三 荘司次郎太郎直勝
第四 荘司筑前大掾直胤
第五 伊地知伯耆守平正幸
第六 奥大和守平元平
第七 石堂運寿是一
第八 手柄山甲斐守正繁

た、ま、「刀剣談(1)新新刀の上々作(上)」東京朝日新聞, 1903年8月3日, 朝刊, 7p

それを続いて野口耳火衣という人が作った文政年間以後の刀鍛冶の東西番付がこちら

東 大関 水心子正秀
  関脇 次郎太郎直勝
  小結 筑前大掾直胤
  前頭 細川正義
     水心子貞秀
     竹村正明
     古山宗次
     水心子正次
============
西 大関 山浦環源清麿
  関脇 筑州住左行秀
  小結 薩州済正良
  前頭 大和守元平
     栗原劍司信秀
     石堂運寿是一
     手柄山正繁
     山浦源正雄

今泉と野口は各々で作ったランキングを元に、どの刀鍛冶が上々作であるかについて激論を交わしたとコラムには書かれています。
しかし後世に「江戸三作」と定義されることとなる「水心子正秀」「源清麿」「大慶直胤」は自然とそこに入っており、ランキングに入れるべきかどうか議論に上ることはなかったようですね。
明治時代の愛刀家の中で既に高い評価を受けていたらしいことがわかります。

閑話休題。

④た、ま、と東京朝日新聞「刀剣談」(続)

追って調べていくと「た、ま、」は明治36年8月から38年10月まで刀剣に関するコラムや、刀劔會で実施された刀剣鑑定会の講評を断続的に寄稿しているようです。

その中に気になる文章がありました。
(※判読できなかった文字を「■」としています)

觀刀評は先づコレにて畢りました爰に少々
餘白がありますから花月庵刀劔事業につき
庵友総代として某々君等大に肩を入れられ
夫々方面知合ひの間へ披露致し呉れました
る文を其儘掲載して讀者諸君の一讀を煩は
すことと致しました

花月庵刀劍事業披露
我國建國以来來鎮護國家の武器たりし刀劍も古刀は大抵
老朽して實用に遠く新刀二作は銘を削つて古刀に僞装
され鍛治の祖傳を襲ぎたる者も年々死亡して繼續者な
く古來の鍛法殆んど滅絶せんとするに當り前後二回の
對外戦役は圖らず我が刀劍が現世紀の戰闘に著大の効
力ある■を證明し従來最上の美術品として歐米人に賞
美せられたる外今や絶類の武器として又その名譽を世
界に博せり」斯道に忠實熱心なる花月庵主人(中島玩
球君觀刀號たま)爰に見る所あり自今毎月一回『刀劍』
と題する小冊子を發行して國民一般に刀劔の知識を普
及せしむると同時に當今落莫たる鍛冶の中有数の刀工
を起󠄁し新身良刀を打出して軍國士人の需要に供し鍛治
古法の滅絶せざらんことを謀り又時局の必要鍛冶の外
鑑定、試樣、磨研、装作、刀身■■等凡そ刀劔一切に係る
事件を懇切に取扱ひ世間に散在せる僞銘贋造の如何物
は勿論正眞銘の物と雖も鈍刀老朽刀の實用に適せざる
もの及び曲折の虞あるを感ずるもの等は審査鑑別して
之を指摘し軍人は勿論何人にも僞氣なき正眞可然良刀
を所持せしめんことを期望し今茲乙巳四月神武天皇祭
櫻花咲󠄁初むる日東京麻布霞町二十五番地花月庵に於て
刀劔事業を開始することゝなれり」花月庵主人は従來
刀劔會との関係も浅からず秋水軒翁󠄂今村長賀君と知交
し同翁は勿論廣く斯道知名諸氏の賛助を有するのみな
らず本阿彌家も亦花月庵の事業に大賛成を表し自今爲
めに全力して方面の事に當ることゝなりたれば或は之
れが動機と成りて刀劔界に一新氣運を開き來るを疑ふ
可からず

た、ま、「刀劔會評(3)」東京朝日新聞, 1905年4月16日, 朝刊, 5p

「花月庵刀劔事業開始披露」には「花月庵」という団体が刀剣に関する事業を興すという旨の声明が書かれています。花月庵の主人「玩球」なる人物は刀劔會とつながりがあり、今村長賀とも知己の中であり、さらにこの事業には本阿弥家も賛同している、というようなことも書いてあります。

さらには「觀刀號たま」という記述も見られます。玩球は刀剣鑑賞の場では「たま」というペンネームを使っているようです。

なるほど。
つまり「た、ま、」の正体は、花月庵の主人「玩球」…!

刀劔會とは現在の中央刀剣会の前身で、活動費の一部を明治天皇から下賜され、皇室や政府の要人が用いる刀剣の管理にも関わっていた団体です。今村長賀はその中核的メンバーで、言わずもがなですが本阿弥家は室町時代から続く刀剣研磨と刀剣鑑定の大家であります。

つまりこれって、
我が花月庵には、こんなにすごい皆さんが後ろ盾としてついておりますよ!
というアピール文?ってことか…?

この記事から約1年後の東京朝日新聞紙面で、下記のような広告を発見しました。

●「刀劔」
花月庵主人玩球氏(號たま)の発行する雑誌刀劔は此空前の戦役中に生まれて頗る健全に發育し來五月五日はまさに創業一周年相當するを以て同日発行の紙上には殊に記事を精選し名刀寫眞畫抔の挿入もある由なり

東京朝日新聞, 1906年4月30日, 朝刊, 3p

冊子「刀劔」は無事に発行され、花月庵の事業も最初の1年を乗り越えたようですね。

紙上を調べてみると「た、ま、」が刀剣の連載コラムを始めるより前から、「玩球」名義の狂詩が幾度となく掲載されていることが分かりました
(狂詩とは、漢詩のルールに沿いつつ、社会風刺やユーモアを主題として扱う詩のことです。江戸時代中期から江戸を中心として流行しました)。

狂詩分野では「玩球」、刀剣分野では「た、ま、」とペンネームを使い分けていたかもしれませんが、刀剣事業開始後にその境目が曖昧になったようです。玩球は1906年1月6日朝刊に「中島玩球」名義で「刀劔國家保護」という文章を寄稿しています。
そこには、
刀鍛冶の伝統が消滅の危機にあるが、日本特有の美術品であり、実用の上でも日露戦争に大いなる貢献をした刀剣と、その作り手である刀鍛冶が絶えるようなことはあってはならず、国費を投じて国家的に保護するべきだ、
…というような主張がありありと記されています。

…こうしてみると、なんだか過激な思想の人?のように見えてしまうかもしれません。
しかしながら当時の大日本帝国の状況を鑑みると、彼の主張は決して珍奇なものとは言い切れません。

明治時代初期に廃刀令が公布され、以来、みるみるうちに市場規模が縮小していった刀剣が再度注目を浴びるようになったのは、諸外国との戦争および大日本帝国軍の勝利が影響していると言われています。日清戦争ののち、明治30年代頃から全国各地で刀剣団体が結成されるようになるなど、刀剣に関する興味や機運が目に見えて高まりを見せていたようなのです。
玩球はそんな時代に新聞で刀剣コラムを発表し、本邦初となる個人刀剣誌「刀劔」を立ち上げ、刀剣の更なる啓蒙を図ろうとしていたのですね。

④玩球こと中島勝義

「刀劍」誌を実見してみると、編集者兼発行者の欄には「中島耕作」と書かれていました。だからでしょうか、昭和時代の刀剣研究書にも「花月庵主人玩球=中島耕作」とする記述が複数見られます。

しかし玩球の本名は別にあることがわかりました。

中島勝義(1858~1932)は、北海道石狩国(※当時)生まれのジャーナリストです。明治時代前期に東京、大阪、広島、九州など各地の新聞社に在籍して活動しました。

自由民権運動の活動家としてはかなり際立ったものがあったようで、「評論新聞」に投稿した記事が原因となり、数ヵ月の禁錮刑に処せられたこともあります(当時、反政府的言論活動を封じるために制定された「新聞紙条例」という悪法が存在していました)。
しかし彼は筆を折る事なく、その後も政治、教育、文学分野で精力的に執筆活動を続けていました。西南戦争の取材のために自力で九州に渡ろうとした(しかし結果的に下関で止められた)こともあったとか…!バイタリティがあるにもほどがある…!

明治文学の研究家・柳田泉は、彼が狂詩の世界で名手「玩球」としても知られ、刀剣や書画の鑑定家なる面もあったことを紹介しています。なんという多趣味な人だ…!

勝義は明治30年に「福陵新報」(「西日本新聞」の前身)を辞して東京に拠点を移し、東京朝日新聞で記者をしていたようです。

彼と同時代を生きた刀剣商「網屋」の五代目小倉惣右衛門は「名士と刀剣」というエッセイの中で、勝義のことを回顧しています。
曰く、彼は新聞記者として刀劔會に出入りしているうちに刀剣趣味に染まっていき、その後数年足らずのうちに新聞社を辞して刀剣事業を始めたのだとか。

それは、つまり、現代で言う「沼落ち」というやつでは…?

もともと文筆を生業としていたからかどうかはわかりませんが、勝義が発行した花月庵の「刀劍」誌は、古刀が圧倒的に人気の時代に新刀や新々刀を紹介する珍しい雑誌として多くの人々の興味を引いたようです。
読者は全国的に増え、誌面サイズもページ数もだんだんと増していったとか(その分、資金繰りにも冊子制作にも苦労するようになり、五世惣右衛門も何かと手伝うことがあったそうです)。

五世惣右衛門は勝義を「学者肌」「高尚」「正直な人」「辛抱ができない」と評しており、刀剣商として事業が失敗に終わったのはその性格があだとなったのではないか、と思っていたようです。
ただし「花月庵時代より今日迄其儘に辛抱して居りましたならば新刀、新新刀の大家として元勲待遇を受けることは疑ひない」とも述べています。
その筆致からは勝義が刀剣を論じる機会に恵まれなかったことを非常に惜しむ気持ちが見て取れました。

中島勝義は「新々刀」と共に明治の刀剣界に新たな風を巻き起こした人物…と言っていいかもしれません。

「刀劍」誌の廃刊後、勝義は政治家の犬養毅らと共に「刀剣研究会」という団体を結成しました。それより後の刀剣関係の足取りはなかなかつかめなかったのですが…
彼の還暦祝いの会の広告が見つかりました。見てみてください。
中ほどに協賛者の名前が載っているのですが、その筆頭には犬養毅、それから本阿彌彌三郎(本阿弥天籟)の名前もあります。

幹事河村惇外「中島勝義君還暦会広告」佐賀県立図書館データベース, 鬼丸北川家資料 https://www.sagalibdb.jp/komonjo/detail?id=42543, (参照 2024-08-02) パブリックドメイン

それから餘興(余興?)という項目には「刀劍」と書いておりますね。
研究者として何かを発表する機会が無かっただけで、刀剣やその関係者との交流が途絶していたわけではないようです。よかった…!


今回のまとめ

「新々刀」と呼ばれる刀剣の区分がある。
江戸時代後期に変革をもたらした刀鍛冶・水心子正秀を起点として、
おもに安永年間(1772年~)から明治時代の廃刀令公布(1876年)までに製造された刀剣を指す。「復古刀」と呼ばれることもある。

福永酔剣「日本刀大百科事典」には、大正3年刊行の本阿弥光遜「日本刀」が初出であるというような記述がみられるが、それより11年前の明治36年に「た、ま、」こと中島勝義が、東京朝日新聞紙上で「新新刀」という区分を提言していたことが分かった。

勝義は個人として本邦初と言える刀剣誌「刀劍」を出版し、古刀至上主義の向きがあった時代に新刀・新々刀を積極的に取り上げ、多くの人がそれらに目を向けるきっかけを作った。

なお今回の調査では、勝義が「新新刀」という名称の生みの親であるかどうか、その根拠に足るような資料を見つけることはできなかった。
ただ、先述の通り、明治30年頃から日本各地で刀剣団体が結成されるなど「刀剣ブーム」と言える気運の高まりがあり、勝義が刀剣趣味に染まっていったのは、その団体の一つ「刀劔會」へ出入りするようになってからだという。したがって「新新刀」という言葉が刀劍會の関係者周辺で用いられていた可能性は十分に考えられる。

参考文献

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北崎豊二「近代地方民衆史研究」, 法律文化社, 1985. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12284145 (参照 2024-08-01)

辻本直男「刀剣講話とその周辺」, 今村長賀,別役成義(講述)「今村・別役刀剣講話」所収, p104-114, 博友社, 1978. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12424764 (参照 2024-08-01)

永田礼次郎「明治百年の足跡」,「刀剣と歴史(442)」所収, p23-28, 日本刀剣保存会, 1968. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7901136 (参照 2024-08-02)

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清水孝教「刀剣之新研究」,  太陽堂書店, 昭和4.

中島耕作(編)「刀剣(戊申第12集)」, 花月庵, 1908. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1516062 (参照 2024-08-03)

佐藤幸彦「明治の刀界 斉藤酉男治の刀剣年表稿による明治の刀界展望(その1)」,「刀剣と歴史(617)」所収, p18-26, 日本刀剣保存会, 1997. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7901311 (参照 2024-08-03)

鶴堂「刀史十年記念會」, 「刀剣と歴史(121)」所収, p62-65, 日本刀剣保存会, 1920. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7901065 (参照 2024-08-03)

高瀬真卿「刀剣談」, 日報社, 明治43. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/854220 (参照 2024-08-03)

珍聞館(編)「團團珍聞(1532)」, 團團珍聞社, 1905. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11211052 (参照 2024-08-03)

小倉惣右衛門「名士と刀剣」, 「日本刀講座(9)」所収, p419-423, 雄山閣, 昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1265852 (参照 2024-08-03)

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