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料理人からレザークリエイターへ。難病との戦いで見つけた新たな可能性

このnoteは島根県出雲市にある、湯の川温泉の旅館、湯宿 草菴から生まれた革製品オリジナルブランド【NARUHIKO UCHIDA IZUMO 】 の制作者の想いを綴るnoteです。

今まで作品以外のことを語ることはありませんでしたが、自身のブランドや革製品へのこだわりを伝えるうえで、自分の半生を語らずには深く伝えきれないと思い、今回noteを立ち上げました。


人生には時折、予測不可能な出来事が訪れ、その中で新たな可能性が芽生えることがあります。
私は旅館を営む家で生まれ育ち、その後実家を料理人として引き継ぐキャリアを築き始めていました。しかし、現在は包丁を針に持ち替え、自身のブランドを立ち上げて奮闘しています。

なぜ、包丁を針に持ち替えることになったのか。
様々な人生の転機を経て、新たな扉を開くまでの私の物語です。

幼少期の思い出

生まれ育った家は、旅館、結婚式場、宴会場を経営しており、子供の頃から家の仕事の手伝いはよくしていました。
宴会で出る残飯をバケツに集めて混ぜて遊んでいたり、庭園で蜂などの虫を捕まえて遊んだり、仕事場と家と遊び場がごちゃ混ぜになっていました。
遊びと仕事が交じり合う日々は、今思えば他の同世代の友達とはかなり違っていた環境だったかもしれません。

実家の旅館「湯宿 草菴」

高校卒業後の進路

地元の高校では音楽コースを専攻し、大好きなトロンボーンに没頭しました。
高校卒業後は、まずはサービスの勉強をしようと考え、父親の出身校でもある「日本ホテルスクール」に入学しました。

ホテル学校を卒業した後は、中学から続けていた音楽が忘れられず、音楽の専門学校に行き、バンド活動をしていましたが、上手くいかない日々が続きました。
そんな時、両親から「実家の旅館の厨房で働いてみないか」と提案されました。
自分でもこれ以上両親に心配をかけるわけにもいかないと考えていたこともありましたし、元々物を作るということが好きだったので、「料理人になって、美味しい料理を作れるようになろう」と決意しました。

その後、草菴の料理長の出身校でもある、「武蔵野調理師専門学校」へ進学。

調理師学校は、今まで経験したことが無いほど厳しい学校でした。
料理の味はもちろん、片付け方や身なりなど、一見料理と関係のないように思える事も、作品(料理)の仕上がりに繋がるという事を学ぶことができました。
『人となりは作品に出る』これは今の自分の仕事でも心掛けている考え方です。

調理人としてのステージ

調理師学校を卒業後、実家に帰って料理長の下につき、料理人としての一歩を踏み出しました。

毎日の忙しさに飲み込まれそうになりながらも、何とかくらいついて仕事をしていました。
そんな矢先、なぜか手先に力が入らなくなってきたのです。

最初は忙しいうえに、寒い時期でもあったので、疲れと寒さで手がかじかんだんだな、と思ってやり過ごしていました。
その後も徐々に症状が悪化していき、さすがにおかしいと、病院へ行きました。
しかし地元の病院を転々としましたが、島根県内の病院では原因が分からないのです。
そうしている間にもどんどん手の様子がおかしくなっていきます。ついには箸さえも持てなくなっていました。
もちろん重い包丁を持ったり、箸で繊細な盛り付けを行ったりすることはできません。

ようやく料理人として自信がついてきた矢先での事だったので、正直「またか、またこの道も絶たれるのか」と絶望を感じました。

辛い闘病生活と病名発覚

島根県内の病院では原因が分からないので、鳥取大学医学部付属病院で検査入院をすることになりました。

入院生活は、今までの人生の中でも1番辛く苦しい時期でした。
「料理人として成功しようと今まで努力してきた事が全て無駄になり、職を失い、手の自由も、夢も失った。」
全くポジティブな考えは浮かばず、毎日絶望しかない日々を送りました。

大学病院では、検査とリハビリが分刻みで書かれたスケジュール表を渡され、朝から晩までそのスケジュールをこなす日々が続きました。

検査は激痛を伴うものもあり、凄く辛かったのですが、リハビリでは、「自分の意思では動かす事ができない右手になってしまった」という現実を突きつけられ、激痛を伴う検査よりもさらに辛く感じました。

数ヶ月にわたる検査のお陰で、【CIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)】という難病である事が判明しました。

この病気による麻痺のせいで「母子球筋」という親指と人差し指で物をつまむ為に必要な筋肉がほぼ失われた状態になっていました。

医師から、今の医学では一生治らないだろうと言われたと同時に、「何事も為せば成る」と元気づけられました。

しかし、当時の私には包丁はおろか箸さえも持てなくなった自分に、料理人を続ける強い意志はもう消えてしまっていました。

退院後の自分の居場所

幸い、検査により病名が発覚したことで、適切な治療を受けることができ、完治とはいきませんでしたが、無事退院することができました。

しかし退院しても、今までのように料理の仕事をすることはもうできません。

そこで、旅館内に新設するセレクトショップの責任者を任されることになりました。きっと当時の社長(父)と女将(母)が、旅館の中に料理以外の私の居場所を作ってあげようと考えてくれたのだと思います。

その際に1つだけ、とお願いされた事があります。
それは、「どこの宿にもない、独自の店を作ってほしい」ということでした。
そこで私が考えたのがハンドメイド商品でした。

ハンドメイドへの挑戦

最初にハンドメイド商品として作ったのが、ビーズを使ったアクセサリーでした。持病のリハビリになると考えたからです。

小さなビーズを指でつまむ、穴に糸を通す、紐を結ぶ。これらのすべての行程が、日常のリハビリに通じると考え、制作を始めました。
当時の私には、ビーズをつまんで糸に通すというだけの事でも、とても大変な作業でした。

徐々にコツをつかみ始め、ショップでも多彩なデザインを販売できるようになり、知人からのオーダーなども入るようになっていきました。

その後ビーズと本革を合わせたデザインを採用し、しばらく経ったころ、本革を使用したアイテムをもっと作ってみたいと考えるようになりました。
そこで、独学でレザークラフトを始め、アクセサリーだけでなくバッグやポーチなど、幅広い作品を作成するようになりました。

自分のブランドを立ち上げる

現在、自分の作品には必ず【NARUHIKO UCHIDA IZUMO】 というブランド名の入ったタグを付けて販売しています。
難病になり、日常的なリハビリが必要になったことがきっかけで始めたハンドメイドでしたが、現在では自分の名前の入ったブランドを立ち上げるまでになりました。
また、生まれ育った出雲に敬意を持っていること、作品を通して出雲の魅力をもっと知ってもらいたいという思いから、自身の名前と共に「Izumo」を付けています。

私【NARUHIKO UCHIDA IZUMO】 は、 難病「CIDP」 により手が不自由になり、ハンデを背負う事になったレザークリエイタ 一です。
今は、辛い思いをしている人や、私のように病と闘っている人に、少しでもインスパイアできるような作品を作り上げる事を目標にしています。

実際、手が不自由な私だからこそ、商品のアイデアが生まれることもあります。
その一例が【本革のカップホルダー】です。

病気のため物を持ったり、握ったりする事がしにくい、という点から思いついたもので、持ち手がない紙コップに、このカップホルダーを付けて使用することで、支えができ、とても持ちやすくスムーズに飲み物を飲むことができます。

さらに機能性だけでなくファッションアイテムとしてもお客様に楽しんでいただくため、デザインから起こして商品化いたしました。現在ショップで販売しているだけでなく旅館内のラウンジにも設置しております。

今振り返ってみれば、とても辛かったけれどあの日突然難病になったことは大きな人生の転機だったな、と思えます。

最後に

これまでの自分の人生は、決して平坦なものではありませんでした。
包丁を握りしめ、料理人としての夢を追い求めた時期。しかしその先には、難病になって料理をあきらめるという試練がありました。
冷たい病院のなかで、絶望や孤独を味わったあの日々があるからこそ、がむしゃらに手仕事に命を吹き込む現在があるのだと、今では思えます。

手が不自由でも、心の中に灯り続けていた作品作りへの情熱が、私を新しい世界へと導いてくれました。

私の作品は、一点もののアートです。一針一針に思いが詰まっており、一つとして同じものはありません。
そのような作品が、皆様の手に渡り、皆様の生活の一部にとして馴染んでいく。
これは今の私の人生においてとても嬉しいことです。

これからもたくさんの皆様に作品が届けられるよう、努力を積み重ねていきたいと思います。


souan style:yunokawa concept shop

―雲出づる国 出雲・湯の川― 湯宿 草菴内
◎営業時間/朝8:30~11:00、昼12:30~14:00、夕15:30~20:30
◎定休/月曜昼(月曜が祝日の場合は営業致します)・火曜昼・水曜昼・木曜昼

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