きょうの聡太くん 2024/4/9
毎晩のちゅーるをやめようと思っている。ここ最近聡太くんのお腹の塩梅がよろしくないのだ。それはおそらく食べ過ぎなのだと思われる。
ちゅーるを与えるととにかくものすごく大喜びするので、エリカラなしの生活になってからもやめられないでいた。だがお腹の塩梅がよろしくないのであればやめねばならない。乳酸菌入りを与えていてこれなのだから状況は深刻だ。
いままでも「そろそろちゅーるやめようかな……」とは思っていた。しかし「ちゅーる食べるか?」と訊いたときのキラキラした目や「ううーっ」という返事を聞くと決心が鈍ってしまい、スーパーでついちゅーるを買ってしまっていたのである。
「おいしいおいしい……おいしいおいしい……」と食べている様子もたいへん可愛らしかったし、あんなに大喜びするおやつをやめてしまうのは心苦しい。しかしきょうからすっぱりとちゅーる断ちしようと思う。
それにXで見かけたのだが、ちゅーるをもらえるのが当たり前になってしまうと、歳をとって食が細くなったときに「ぜったいおいしい食事」としてちゅーるだけなら食べる、ということがなくなるらしいのだ。
知り合いの元北海道民が、家族の都合で毎日カニを食べることになったことがあると言っていた。最初はおいしかったが毎日では飽きてしんどかったらしい。カニでもだ。猫も毎日もらえるのではちゅーるのありがたみが薄れるのかもしれない。
飼い猫というのはみな心が赤ちゃんなのだという。聡太くんもそうなのだろうな、と思う。
なぜそう思うのかというと、母氏の胸にどかっと座って、足元を母氏の腕に支えさせて、その状態で完全に脱力し爆睡するからだ。子猫のころよくやっていた体勢であるが聡太くんはもう子猫ではない。立派な大人猫だ。
心が赤ちゃんでいられる、というのは、人間のことを「こいつらはぼくのめんどうをみてくれるひとだ」と思っている、ということである。自分で自分の面倒を見なくてもいい、ということである。
そうやって頼られているのだから幸せにしなくてはいけない。
ここ何日か、創作論の本を読み直してノートを取る作業をしている。わたしのいちばんいい勉強法はノートを取ることだ。将棋だって公民館に通っていたころは教えてもらったことをポリポリノートにつけていた。
きのう、つい昼間にぐうたらしてしまって、夕食後に茶の間でノートをつけていたのだが、聡太くんは一切ノータッチでスヤスヤと寝ていた。なんと穏やかになったのだ、この聡太くんという生き物は。
子猫のころならペンなんて持たせてもらえなかった。「それなに? それなに? それなに?」としつこいばかりの好奇心を発揮して邪魔しにきた。眠かろうがなんだろうが起きて邪魔しにきたはずだ。
すっかりお利口になった。それはチョッキンしたからかもしれないし大人猫になったからかもしれない。聡太くんは落ち着きというものを手に入れたのである。
変わっていないようでずいぶん変わるんだなあ、と思う。聡太くんという生き物の根っこは変わっていない(なぜなら今朝聡太くんは母氏のストッキングを盗んで遊んでいたからだ)と思うのだが、ずいぶんと穏やかくんになった。悪いことをするのは人間がそこにチョッカイを出されるものを放置するからだ。
とにかくチョッカイを出してくることもないのだし、やりたいことをコツコツやっていこうと思う。
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