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きょうの聡太くんとプレイバックたまちゃん 2024/5/30
聡太くんの夕飯の一部と夜8時を過ぎてからのおやつには、ササミを茹でて切ってレンチンしたものを与えている。
細かく切ってあるのでレンチンすると確実にパサパサになる。塊のまま与えるのは危ないので、スプーンを突き刺して繊維に沿ってほぐして食べさせるのだが、このときに使っているスプーンは主に、かつてたまちゃんの最晩年、シリンジにキャットフードを詰めていたスプーンである。
細くて薄めのスプーンなのでシリンジに詰めるのが容易だ、という理由で使っていたのだが、たまちゃんが亡くなってからはそのスプーンを見るたび最近あんまり見ないアスキーアートみたいな顔をしていた。思い出を想起させるものというのは意外と身近に転がっている。
しかし今では聡太くんのササミを割くのに使っていて、思い出の上書きをしようとしている。もちろんたまちゃんの最晩年を忘れることはできないが、悲しい記憶ばかりでなく楽しい記憶も保存しておきたいのだ。
聡太くんに手からササミを食べさせると「パクッモグモグごっくん! パクッモグモグごっくん!」とわんこそばみたいな食べ方をする。猫なのにわんこそばとはこれいかに。お前は犬か。毎日が楽しい。
きのうは絵画教室であった。絵画教室は先生の自宅の一室でやっているのだが、先生の家というのが少女漫画に出てきそうな可愛らしいお家で、モッコウバラやクレマチス、他にも名前を知らない花がたくさん咲いていた。
教室に入って支度しているとすっかり巨大猫になった、ちょっと前まで子猫だった猫が甘えてきた。かわいいのでよしよししたりトントンしたりして少し遊んで、先生が戻ってきたので絵の具を用意したのだが、絵の先生がいうには抱っこさせてくれる猫はその子だけらしい。どうも先生のところの猫は「だっこしてー」と甘えてこないらしいのだ。ビックリした。
そして母氏が言うには同僚の方々のところの猫も、「だっこしてー」とは来ないらしい。驚きというかちょっとショックですらある。
ついでに言うとわたしが先生の猫を撫でてもスリスリ以上の反応はなかったわけだが、先生がきたらニャーニャー言って甘えていた。やはり飼い主とそうでない人がわかるようだ。
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絵画教室のあと図書館に寄って本を借りて、帰ってきてやれやれとソファに座ったら聡太くんが乗っかってきた。
どうやら断固として抱っこであったらしい。よその猫と遊んできたことがわかるのだろうか。やきもちを焼いているのだろうか。
いったん聡太くんをソファから下ろして横になったら、当たり前みたいに膝のあるあたりにどっこいしょと座られた。「石抱きの刑」である。流石に石ほどではないが、およそ4キロあるのでズッシリと重い。
なんというかWEB小説でありそうだ。「嫉妬深いお猫さまに溺愛されています」みたいなやつ。まあ自分が悪役令嬢だとは思わないが。
しばらく抱っこしていたので、もしやとスカートの匂いを確かめたがとりあえず匂いつけはされていなかった。
猫には猫なりの理屈があって生きているのだなあ、と思う。人間が想像するよりもっと深いことを考えているのかもしれない。だから夏目漱石は猫の目線で人間という奇妙な生き物を描いたのではあるまいか。
猫は見ている。猫と和解せよ。そういうことなのだと思う。