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わたしにとっての絵本と図書館

絵本が図書館において重要な役割を果たしていることは多くの人は知っていると思う。市町村の図書館では絵本の読み聞かせを行っているし、図書館関係ではよく引用される法令の「図書館の設置及び運営上の望ましい基準」内にも読み聞かせを実地、支援することを目標として書いている。

つまり絵本は必須的にどこの図書館にも置いていることになる。絵本を置いていなければ図書館ではない、と言っても過言ではない(まぁ図書を置いていれば図書館なんだけれども)。

私は一時絵本をよく描いていた。十年ほど前に絵本のサイトを製作したこともあって、よく絵本を理解しようと懸命になった時期があったものだ。
今でもそのサイトは見れる。よろしければ へんなあなたのための絵本(サイトは閉じました)

この絵本制作の途中で、やはり相手に読み聞かせをしながら、内容をどうしようか、考えていた。当時の私は無謀だったので、有名な絵本屋を片っ端から周り、どこが良くてどこが悪いのか、聞きに行き、そしてそこでも店主に対して読み聞かせを行い、それがなっていない、とボロボロに言われて帰ってくるようなことがあった(店主達はなぜか読み聞かせを聞いてくれる)。

きちんとした思想がある本屋はたくさんある。というよりも、この出版不況で絵本の専門店をやるぐらいの人たちだから、何か強い意志がなければ、その行動には出ない。

絵の悪さ、声の出し方の拙さ、文章の間の悪さ、等、そういう意味では心そのものが否定される経験であって、打ちひしがれながら、その時はいろいろやった。

私はその後、なぜだか、現代美術の方にも手を伸ばすのだが、途中でやっぱり絵本に戻ることにした。現代美術をするのには自分の階級が全く違うことを思い知らされ、ここでは別の意味で打ちひしがれることになった。情報をsnsを通じて探しているうちに、絵本で町興しをしている場所に二ヶ月程身を置くことになった。私は出版経験無しのアマチュア作家のレベルだから、特別待遇されるようには扱われなかった。だが、最低限の暮らしはでき、簡単なバイトをもらうことはできた。

私はその間、町の図書館に何度か足を運んだ。大きな敷地に開放感のある建築で、絵本と漫画が何冊もあり、車で来る観光客や地元民がレジャーとして楽しめそうな図書館だった。図書館には様々な絵本作家が訪れたときに描かれたキャラクターが大きく描かれていた。室内には地元の特産品を使ったカフェが併設され、小気味のよいジャズがかかり、皆思い思いに楽しんでいる。静かで神経質な図書館のイメージではない、今思い起こせば、これは静かなテーマパークだと思った。

静かなテーマパークは穏やかだが、闇がない。私は闇を愛する図書館の方が、どちらかといえば好きだ。そこでひっそりと本を読むほうが落ち着く。

私はその場所で、絵本のことについて活動することが少しもできなかった。二ヶ月の間、ひたすらに消費と労働だけが行われた。村の様々な会合にも行った。だけれど、全く言葉がわからなかった。会話はできるが意味が入ってこない。全く意識が違うことを思い知った。何度かあった人々の顔を思い浮かべることはできる。だが、何の言葉のやりとりをしたのか、私は思い出せない。

私は二ヶ月で、その場所を去った。絵本について一切考えられなかった。残ったのは村の風景と、そこにポツンとある大きな開かれた図書館だけだった。その後は恩知らず一人旅で書いているのでよろしければ。

私は実家に戻ってから、一年後に作品を描いたが、その場所から学んだことではなかった。テイストは逆に仕上がっており、暗がりで暮らす子どもがふつうをどう考えるかという内容だった。闇の方を私は選んだのかもしれない。作品の講評ではその作品を「ガロ」漫画を想起させる、と言われた。当時は全く的はずれな評論だと考えたが、今思えばそれは納得できる。だが暗い絵本が無いわけではない。ゴーリーしかり、佐々木マキしかり。

それから2年後、私は司書講座を受けることになる。児童サービス論の、読み聞かせ、である。50数名いる中に、暗い絵本や変わった絵本を持って読み聞かせする猛者はいなかった。私はシルヴァシュタインの「大きな木」を読んだ。

絵本には跳躍する力がある。漫画や映像のように説明をする必要が少なく、話し手がその解釈を全面に表現できるメディアである。説明ではできない、詩と感情を込めることができる。

この読み聞かせ講習の日、実は「大きな木」以外に一冊、ゴーリーの「不幸な子ども」を忍ばせていた。この平穏のみを望む司書講習に一つの事件を、やや悪目立ちをするやもしれないが、別の可能性の作品の存在を、証明しようとしたのだ。

だが、私はそれはしなかった。まず学校司書で活動している先輩に「不幸な子ども」を読み聞かせしたところ、顔を歪められていたから。別の事も思えた。それをしたところで反応が帰ってくる可能性の方が少ないと感じたからだ。それは作品の批評的な観点でもなく、作品の選択に批評がいくわけもなく、たださざ波のあとの何も起きない空間が容易に想像できた。

絵本には様々な可能性がある。だが、それを求められているテイストは均一化しようとしている。簡単にいうとキャラクターによる演出があふれ、大団円が述べられている。選書のプロになろうとしている司書講習の場でもそれは感じた。

私は自分の作品を最近見返してみて、どのように当時、批評できたか考えていた。だが、言葉がでなかった。それはまだ、私が私を証明しようと必死であがいた形跡であり、その暗がりを未だに好んでいるからかもしれない。

言葉もイメージも一つの詩だ。
その詩を表現するためのツールをどのように使うかだけだ。

だが、そのイメージに呑まれてはいけない。
言葉の旋律に酔いすぎてはいけない。

教える、ということよりも、表現する、という大人を、
図書館のような現場でも見てみたい。

そして、私の生み出した作品も、
ある一人の感情を表現するツールになる日があれば、
と久々に妄想したのだ。

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