私は”自分”を持たずに生きたいと思う
最近、普通の基準が上がっている。
男性には筋トレやメンズメイク、女性には脱毛やネイルが当たり前のように求められるようになった。
その傾向は内面にも及び、やれ自己投資をしなさいだの、やれ強く生きなさいだの、そういった言葉が溢れている。
テレビ越しでしか届かなかったそれらの思想は、今ではSNSのインフルエンサーを通じて、広く、そして簡単に波及する。
そして、そのような無数の発信者の思想に憧れを抱く人が増えている。
彼ら発信者は、独力で人生を切り開く強い生き方を体現した存在に見える。
だからだろうか、最近「”自分”を持っている人が好きです」と答える人が増えている気がする。
でも「”自分”がある」とはいったい何だろうか。
最近聞いた説明は「”自分”がある=周りに流されず自分の意見が言える」。
なるほど。
言われてみれば、その意味で「”自分”がある」を解釈している人は多い。
たしかに人間関係において無理な我慢は良くないし、言葉にしてくれた方が分かりやすいので、上記”自分”がある人を好きだと思う感覚は理解できる。
ただ、私が嫌悪感を感じるのは「”自分”がある人が好き」という言葉の裏に「”自分”がない人(正確にはその人の価値基準で”自分”がないと判断した人)は嫌だ」という気持ちが見え隠れしていることだ。
では、”自分”がある=周りに流されず自分の意見が言える、と解釈したとき、自分の意見を言わない人には”自分”がないのだろうか。
少し考えた。
んーたしかに意見そのものがない人は、”自分”がないと思われても仕方がない気がする。
でも”自分”がないと判断されるほとんどの人は、自分の意見を”言わない”、あるいは”言えない”人なのではないだろうか。
その人たちには、意見を持ちながらもそれを発さないだけの理由がある。
そしてその理由の大半は、自分以外の誰かの視点に立った結果なのではないだろうか。
その場の盛り上がりを壊したくなくて、、
相手の気持ちを尊重したくて、、
相手を傷つけたくなくて、、
それはある種の思いやりだと私は思う。
そこには周りに目を向けられるその人の優しい”自分”がある。
そんな想いを持って自分を抑える人が、”自分”がないから、という理由で否定される世界で私は生きたいとは思わない。
少なくとも「俺/私って結構”自分”があって、、」という人と一緒に居たいとは思わない。
そういう人たちは、自らが主張するその”自分”が周りの思いやりの上で成り立っていることに無自覚だから、、
ベクトルが自分に向いた”自分”ではなく、他人に向いた”自分”を持つ人を美しいと感じる。
そして、そんな生き方ができる大人になりたいと私は思う。
水無月 双
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