映画 マチネの終わりにの感想

マチネの終わりにの映画がついに配信開始されたので感想を少し。
盛大にネタバレしているので、まだ観ていないという方は気をつけて下さい。




私は映画より先に小説を読んだ。
忘れもしない去年の今頃だった。
授業帰りになんとなく本屋さんで購入し、夜の10時くらいからなんとなく読み始め、気がついたら夜が明けていた。
小説の最後のページを読み終わった時、空が微かに白かったのを覚えている。
それくらい、マチネの終わりにの小説は面白かった。
文章が緻密で奥行きがあり、洋子という女性にとても惹かれたし、物語が東京、パリ、ニューヨーク、バグダッドと世界を舞台に展開され、その中に東日本大震災やリーマンショックなど時事的な事柄が無理なく織り込まれている。
面白い小説を読んだ時私の中ではよく、こんな小説書いてみたいと思うものと、こんな小説私には絶対に書けないというものに分かれるが、この作品は間違いなく後者に分類される。こんなに物語を深く深く紡ぐことができる人がいるのかと驚いた。
そんな小説の映画化だったのでとても楽しみにしていた。私は福山雅治のファンだが、もし仮に、主演が福山雅治でなくても間違いなく劇場に観に行っていただろう。

映画は期待通りとても素晴らしかった。ポスターと予告編を観た時から良い映画の予感はとてもしていたが、それが裏切られなくて本当に良かった。
これ以上ないくらい素晴らしい映画だが、気になる点が数点あるのでそれだけ先にあげて、話を進めようと思う。

まず、前半の脚本をもう少し洗練させても良かったと思う。後半があまりにも素晴らしいのでそれと対比するとどうしても前半が残念に思われる。例えば、蒔野が洋子の安否を心配してメールをいくつも送っていたが、最後の幸福の硬貨の感想を語りたいというような内容のメールの文面は私だったら空気を読んでくれと思ってしまう。しじみの描写も落ち着かせるためだとは分かっているけどできればない方が良かった。また早苗が映画版では最後の方で蒔野と洋子の仲について理解を示すような描写があったが、私は早苗は最後まで、幼稚なままで良かったと思う。映画の最後も、2人が出会ったところで終わり、エンドロールの後のカットはなかった方が好みだ。

以上の数点はあくまでも私が思ったことなので、反論意見があることは十分承知だ。大好きな作品だから気になった、と思って欲しい。むしろなんとも思わないような作品だったら気になる点すら出てこなかっただろう。

では続いて感想を。
まず、音楽、カメラワーク、スタイリストが素晴らしい。
個人的に音楽が良い映画は良い作品が多いと思っている。
良い映画には良い音楽とも言えるかもしれないが。ニューシネマパラダイスなんてその良い例だろう。
このマチネの終わりにで用いられている幸福の硬貨という曲もとても良かった。特に後半、一旦どん底に落ちた物語が流れるように良い方向へと動き出すあの長いシーンの後ろで流れていた時がとても好きだ。また作品の中で何度も奏でられるクラシックギターの音色も美しい。
私は映画用語に詳しくないのでカメラワークという言葉が正しいのか分からないが、映像から空気感が伝わってくる感じがした。パリのテロ後のあのどんよりとした曇り空、秋のからっとしたニューヨークのセントラルパーク、柔らかな温かみを感じる長崎。場面場面によってこんなにも空気感を変えることができるのかと思った。また構図も素晴らしい。洋子が窓からパリの街を眺めている時、テロがあったパリの街を川を行くボートから映し出した時、セントラルパークへ蒔野がやってきた時、端端まで神経が行き届いているのを感じた。
またこれは完璧に私の好みの話だが、衣装やスタイリストさんと解釈が一致した。まず福山雅治演じる蒔野の衣装がとても福山雅治に似合っている。ギタリストとして舞台に立つ蒔野と、私生活での蒔野、どちらも本当に似合っていたと思う。私生活では落ち着いたシンプルな服装。たまに足首が見えたり眼鏡をかけていたり。前髪は下ろしている(個人的には下ろしている方が好きだ)。舞台に立つときは服をしっかり決めて前髪もあげている。最後のセントラルパークのシーンだけ、舞台に立った直後ということもありビシッと決めているがこれがまたかっこいい。まさに、今まで喝采を浴びていた人が、そのまま公園に降り立ったという感じだった。髭がない方がいいというのも解釈が一致する。石田ゆり子演じる洋子の装いも良い。パリで蒔野に会う時のあの青と緑の衣装、とても素敵だ。上品で落ち着いているが、無難なものではなく自分に似合う色を着ている。蒔野との食事にはぴったりの衣装だろう。私も将来あんな服が似合う人になりたい。一方ニューヨークでリチャードとケンと遊んでいる時はカジュアルにえんじ色のニットにジーンズとスニーカーを履いている。けれども、カジュアルすぎず、お洒落なのだ。外に出た時、その上に羽織っていたストールも似合っていた。自分の似合うものを知っているというのは歳をとっても魅力的でいるために必要なことの一つだろう。洋子の衣装といえば、蒔野のコンサートに来た時、洋子は2回とも白いシャツを着ていた。これが良い意味で洋子を引き立たせるのだ。周りの観客の衣装が暗めなのは偶然ではないだろう。

さて、物語では未来は常に過去を変えている、というフレーズが何度も繰り返される。初めてこのフレーズを目にしたときはピンと来なかったが、今ではとても共感できる。思い出はとても繊細だ。その時はとても楽しくても、その後に起こったことでその思い出はどうにでも変わってしまう。私には思い出すだけで胸が温かくなるような大切な思い出があったが、ある時、その思い出の中心人物に少しの嫌悪感を持った瞬間からその思い出は思い出したくもない思い出に変わってしまった。あの時はメールをもらっただけで、幸せで頑張ろうと思えたのに今では消してしまっても良いとさえ思える。それ以来、自分がそのような大切な思い出を持つかもしれないと感じた時にブレーキがかかるようになった。私の中ではある種のトラウマだ。
作中で蒔野は、未来は常に過去を変えている、良い意味でも悪い意味でも、というようなことを言っている。私の場合は悪い意味で変わってしまった。良い思い出は良い思い出のまま残しておけるように日記をつけるのもいいかもしれない、と本気で思った。過去を変えることはできないという人がいるかもしれないが、それは起こってしまった事実に対してであり、記憶や思い出は未来からいくらでも変わってしまうのだ。何度でも言うが、悲しいことに良い意味でも、悪い意味でも。

そしてもう一つ私が誰かと共有したいテーマがある。
ラストシーンとその後だ。
まずラストシーンで洋子は蒔野に会うために走ったか?
私は初めて映画館でこの作品を観た時、洋子はラストシーンでは絶対に走ったと思った。でも今日2回目を観て、その考えに少し自信を持てなくなった。
映画の冒頭、蒔野のコンサートの待ち合わせをしているシーンで、友人の是永から「急いでいても絶対に走らない」、と洋子はからかわれている。それに対して洋子も、幸せが逃げちゃうでしょ、と返している。
初めて観た時は冒頭のシーンとラストシーンの対比として、あんなことを言っていた洋子が、蒔野を見た瞬間走り出した!というシーンだと思っていた。
でも今日観て、幸せが逃げちゃうと本気で信じていたらまた逃げないように絶対に走らないだろうなとも思った。
今こう書き、両方の可能性を考えた後だとやはり私は初めに感じた通り、洋子は蒔野を見た瞬間に感情が溢れ出してそんなルールでさえ無視して走り出したに一票入れるが。
そして重要なその後。
作品がここで終わってくれたことに本当に感謝している。
私は2人が幸せになることを望んでいるが、それはあくまでも私の話で、作品としてはあそこで終わるのが完璧だったと思う。作中でその後が描かれていたら蒔野と洋子が結ばれようが、今の生活のまま友人関係を築いていくことになろうが、どちらでもなんらかの不満を持っていた気がする。
私の楽観的な、そしてハッピーエンド大好きな人間からの意見を書くと、もちろん2人には結ばれて欲しい。だってこれだけすれ違って苦悩してきたのだから。蒔野は結婚していると言う人がいるかもしれないが、そんなことをいえば洋子だって物語の中盤でリチャードとの婚約を破棄して蒔野と結ばれるために全てを捨てたのだ。今度は蒔野が捨てる番ではないかと思う。
これがハッピーエンド大好きな私の考えである。
そして自分で書いておいて何だが、この意見には自分で反論できる。
まずこの2人が一般の人よりもずっと聡明で、分別がある大人だということだ。ここで例を出すのは忍びないが、例えば2人が早苗のような人物であり、過去に起こったことが他人によって仕組まれていたと知れば、自分たちは悲劇の主人公たちということで燃え上がって簡単に結ばれていただろう。
でも私は蒔野と洋子はそんなことはしないと思うのだ。
現に蒔野は小説で早苗との娘である優希の生を、ただ無条件に、絶対的に肯定したかったと述べている。洋子だってそんな蒔野の気持ちは言われなくても察することができ、それゆえに自分を制することができるはずだ。この2人に不運だったのは2人ともがあまりに出来た人物であったため、相手のことを思い身を引くという行為が一般的な人よりもずっとずっと簡単にできてしまうというところにあると思う。
そんな2人があのセントラルパークで出会ってからどうなったのかと考える余白を残してくれたことがとても嬉しい。
私は両親にこの小説を勧め、2人ともに読み終わってから同じ質問をした。この後2人はどうなったと思う?と。私は読み終わった時は先に述べた超ハッピーエンドを信じていたのでそれを話すと、2人はうーんそうかなあという微妙な反応を示した。その瞬間にああ、私はまだまだ子供だなあと悟った。おそらく、大人になるということはたとえその選択をすれば自分が幸せになると分かっていても、選んだことで不幸になる人がいるならその選択をしないという判断ができることなのだろう。その判断には一定のラインがあるだろうが、分別ある大人というのはその基準が高いのだと思う。

長々と書いたが以上が私の感想だ。本当は友達と語り尽くしたかったが残念ながらそのような友達がいないのでここへ書き連ねておく。これはあくまでも私の感想であり、人によって物語の読み方も受け取り方も全く違い、私の意見とは違う感想を持つ人がいても全く不思議ではなくむしろそれが自然だと思う。そんな中の1感想として読んでいただけたら。

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