世代間ギャップと共感の生む痛みとやるせなさと

ぼくらの世代は守られていると思う。

どの時代もそうなのかもしれない、若いひとの未来って守られる傾向にあると思う。

「ミ守られている」

頑張りすぎなくていい、無理しなくていい、そう声をかけてくれているときの人生の諸先輩方の表情をしっかり眼の裏に刻んでおこう、

単純ではない、彼ら彼女らの守られてか過去や踏み躙られてきた苦悶が刻まれているのは目につくしわだけではない。ひだの面はツルツルなわけではなくしっかりと裏もまた凹凸で決して私たち青二才が簡単に触れられるわけではない。

彼らの受けてきた苦痛と乗り越えて踏み台にしてきた過去からすれば
どんなに私たちは甘いのだろう

ただ強ければ生きて行けた世代にすれば、僕たちには世間に味方が多く見えるのかもしれない、「私たちはそんなに手を差し伸ばしてくれる人はいなかった」なんて感じているかもしれないのだ。その一方で「若い世代には景観させたくない」というのも真理だと思う。

反論はある。
僕たちは無理解や苦痛に関しては一見無縁に感じるが全く違う。

僕たちは誰かから許容され受け入れられることの自己追求の旅からはにげられない。多様性の世界には誰か自分をわかってくれる人がいるという幻想から逃げることはできない。

僕たちを愛してくれる文化や価値観への追求の負荷の代償は不老不死の自分探しの旅だ。

昔なら、心の弱い自分や乗り越えられない未熟さや理不尽な要求に対して、
受け入れるしか無かった側面もあるのではないか。世間に順応できない自分ん胃早い時期から気付けて一定の自分への理解が進んで、社会とは相容れない自分でどうにか生きることができたのかもしれない。

僕たちは逃げられない。どこかに多様性の生み出す許容世界やフィットする世界があるかもしれない無限の幻想がいつまでも自分を探し続けさせる。

諦めたときこそ、人生にとっては大きな進歩をしているのかもしれない。



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