曦宗達日記(2020年8月)

8/1
人はテレビ地上デジタルを過信しているのがおおいのか?

静岡ののほほんとした田舎寺で数々の異文化や人間と触れるために。
→常行きたいところ、とりわけ関西にゆく。
→外国で布教
→定職つかずに様々な新鮮空気を求めてあちらこちら。普段はバイトと執筆。

8/2
今後とも妹の散らかりものを部屋から放り出すことをやり続けなければならない教育的日常。母親の世界に踏み込んでしまったようだ。

8・3
一度失敗したりメンタルが壊れようとすると回復の日数が欲しくなる。当然復帰に時間かかる。これを短くできたらねえ。

とりあえずセブンのサラダチキンは美味しくない。素直にサンドウィッチ買った方がよかった。

8・4
播磨の婆様

8・5
https://studyhacker.net/sakura-hozumi-interview01

43点だった。その時その時にもよるが一日中頭が回らない方が多いかも。

17020

8・7
百合かレズビアンか。それすらわからない不可解な幻想文学を。

やはり父と妹二人は早めに死んでほしいと思った日であった。問題を度外視し、何もしないならば治らない。そして、治ることに気づかない。そして悪影響を与える。これは最悪だ。いい加減にしろと言う話。

8/8
女性はすぐに人の心情や本性がわかるのだろうか。

考えすぎも会社などでは必要かもしれない一概に悪と言えない事実。

時間を取られる私と時間を吸い取るネット。

ツヴェタン・トドロフ(『幻想文学論序説』)は、M.R.ジェイムズ(Ghosts and Marvels)やオルガ・ライマン(Das Märchen bei E.T.A.Hoffmann)などを引いて、幻想とは現実と想像(超自然)の間で読者に「ためらい」を抱かせるもので、それは「恐怖」と「驚異」の中間にあるものとするが、H.P.ラヴクラフト(Supernatural Horror in Literature)は読者に誘発する感情の強さのために「恐怖」を重要視し、ピーター・ペンゾルト(The Supernatural in Fiction)やカイヨワ(『幻想のさなかに』)も「恐怖」や「奇異の感情」を幻想の要素としている。マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』は、「幻想とは内奥の空間を探求するもの」[5]とする。

大正末から昭和初期にかけて、雑誌『新青年』などでは江戸川乱歩や夢野久作などの怪奇幻想趣味、あるいはエログロナンセンスと呼ばれる作風が一世を風靡し、また日夏耿之介は「神秘文学」「恠異派文学」として東西古今の怪奇・幻想作品の紹介を行った。国枝史郎などによって伝奇小説というジャンルも生まれる。

カルチャーセンターで諏訪哲史さんの講座や文学研究会との関わりを深くしなければならない。大学は今はまだ会えることができないと思うが、カルチャーセンターやボードゲーム会は今のところ開催。だから、チャンスが欲しい。諏訪さんの講座は幻想文学が多く、私個人のテーマに合うこと、諏訪さんが群像新人賞とってる作家であるため参考になりやすい。学んで知識と教授術を知る。

問題はバイト↓何もなければ、発達障害のものがなければ・・・
否定の返事が来たら、その人にバイト場所を紹介してもらう。
コールセンターなど。


二〇二〇年八月九日

寄り道は必要だが、だらだら動画閲覧など、無駄な寄り道は駄目。自分がこれはダメだと判断したものには即離れるべき。

自己への探求がより強くなる中で作家として自己の本質の見るほど怖いものはない。


不安が大きくなってしまった。それはコロナというよりも自分自身のことである。小説の講座やSTIのために名古屋へ帰途した場合、
授業のプリントが使えなくなってしまうという悲しさ。
↓ネットワークプリントで解決。Wi-Fi使わずネットワークで登録しユーザー番号覚えれば打ちて行ける。


二〇二〇年八月十四日

私は三月に京都に行ったし九月にも行く。名古屋在住もはや同じこと。(誤解を生まぬよう)

幻想文学が静岡だと中央図書館であるため借りにくい。だったら帰った方がいい。

やはりムダの区別は難しい。
考えて、決断するのはなんぞや。
だが切り替えの力は今後の社会で持っておいて損はないだろう。


8・16

曦家を魅力的にし、個を強くするためにはどうすればいいのか。
修養会は今後も必要とし、増えていくだろう。ただ、子供のみでは中々回らなくなってくる。いろいろな年代と親しくするべき。

詩も短歌も俳句も小説も作り方のスタイルはどれも同じだ。例えば、まずとにかく展開や思いついたアイデアを書いてしまう。そこから丁寧に推敲し、また書いては推敲の繰り返し。
短い分でも長い分でも実際は物語であることに変わりはないだろう。というか、全て苦しいのだ。


8・18

やっぱり地下鉄や列車、バスに乗りながら読書するのが一番いい。


8・21

液体窒素を自作してイボを治せないのか。わざわざ医者に確認してもらう形で症状を伝えて液体窒素やら水虫検査やらをしてもらって金を払うのは何なのか。
最も、昔は液体窒素自作はできなかったのかもしれない。だが、今は作れるだろう。これを知らずして我々は今後も金を払わされるのか。ただ、それを知ったとしてもそれを訴えてすぐに変わることができるのだろうか。


8・23

たとえ午前中に一つの作業を集中してやっても、切り替えや記憶のキープなどをあまり使いたくないものでも使ったほうが達成感や本気が見えてよきなのかもしれない。


8・25

バイトは小説が書ける、読めるのを基にかんがえるべき。

最初は気持ちの切り替えやコントロールや執筆時間の臨機応変に手間かからなかったが、最近はなぜか脳みそに切り替えの違和感や若干の抵抗感等があったりして困っている。ずっと同じ場所にいて疲れてしまい、倦怠感が強くなるのか?

今日も八時半くらいに起きた。前日二十三時に眠ってしまったのに。

自分の正しいと思うことをせよ。寄り道はすな!

自分の意志や考えよりも「他人の意見を参考にする~。」と言いつつ参考にもできず決められず、逆に困難することばかりだった。
やはり他人の意見を聞くばかりでは何もない。自分のことへ立ち返って決めなければならない。

例えば寄り道をする。休むにしても、本当に休みたい、鉄道等で休み、基本は文学や創作、STI、鉄道などに集中できれたらよき。

決断せねば。

物語に浸る時間などない。
新しい小説を書くために分析に眼を主に通せ。
もしつまんなくなったら?↓気持ちを切り替えて他の作業をしたりアニメや旅行に浸れ。

モヤモヤしたり、不安になったりするのは、
自分で思考せずに、もっとも大事なことを他者へゆだねていることからかもしれません。
その状態で、アマゾンで好きなものをかったり、
スマホのアプリを、たくさんダウンロードしたり、
YouTubeで、面白い動画を見ても、結局、それらの行為は、
広い意味では、他人の思考に「騙されている」だけです。
それらを見て、面白いと感じるのは、タバコを吸って、気持ちよくなったと思うのと、
同じ構造です。タバコは吸えば、吸うほど、健康を害しますが、
ネットも、スマホも本質的には同じです。

どんなに消費しても、または努力しても、空振りなのは、
それらが、どれも対処療法だからです。

この本は、当たり前なことを私たちに教えてくれます。
それは、自分のしたいことは、
自分が思考して、やろうということです。

もしその結論が、平凡なことでも、
全然良いわけです。なぜなら、自分で考えたことだからです。
現代は、歴史上「自分で考えることが最も困難な時代」です。

PCを開いたら、ひっきりなしに、メールは来ますし、
スマホを見れば、買う、見る、聞く、遊ぶが、自分の意志とは関係なしに、
洗脳されるほど、第三者から提供されています。
ひとたび、それらを享受すると、考えないことが当たり前になり、
自分の人生は全て、他人のモノになります。
この本はその危険性を私に教えてくれました。
考えなくなれば、他人の思考、他人の物差しで生きるようになります。
本当は、自分の思考、物差し、価値観が必要なのに、現代は、自分で考える行為を、
外部に依存する社会構造になっています。

byK-Shibui(どっかの本のどっかの感想文作家。)

8・29

メリット:
元からの信頼関係があるために環境や人間関係などに滞りなくいける。
就活等で余分な体力使わずに済む。

芸術が好きになって芸術作品を作ると夢見たことが間違いだったのか。芸術という夢物語に憧れていたことが間違いだったのか。鉄道のほうが芸術への愛よりも凄まじいのか。どうしてこうなったのか、全くわからないままになってしまった。

徐々に読者や作品がたまるうちに共通点が多くなることを考えれば過去作品の分析も必要かもしれない。


9・7

もうここまで来てしまった以上、逃れることはできない。小説を書くことに何かしらの意義があるようにも思えてくるが、それが見えないから苦しみやめようと思う。そうなれば、自分で動いて様々なことを試すしかない。どっかの雑誌で茂木さんが言っていたように。


詩もやった。短歌もやった。俳句もやった。詩と俳句は賞や投稿をした。けれど、僕は掲載が制限されるようなものに時間や労力を翔ことがどうも苦手だ。それは、気乗りしないと言うのもそうだが、載らなかった時や結果主義の強いメディアは名前の載れない無限の創作者たちを見てはくれない。加えて私は神経質で賞のために文体にこだわることが怖い。
昔は自己主張にイキイキしていたように思える。僕はある時から周囲との競争意識を辞めた。前はそうした意識があったが、それはすぐに滅んでしまい、モチベーションや目的が分からなくなるなど、ブレーキができぬままに招いたことが多々あるため、たとえ誰が何をした、何があったといっても響かなくなってしまった。詩人として失格かもしれないし誰かに、いろんな人に読んでもらえばとても嬉しい限りであるため、詩、俳句、短歌を余技として


批評には「批評を読む。」というのが僕の頭にない。だから余裕が持てる。

自分としてのコンテンツにならないものは外せ。これは曦達久の在り方のバランスを保つために必要とされる。

嫌なモチベーションが生まれてしまった。やらないといけないといった衝動に駆られて何故かストレスが溜まっていく。訳のわからないモチベーション。
嫌なモチベーションとは何か?


やったかやらなかったか。それが勉学者に求められること。

短歌史の文脈を分析し、新たなステージを作る。→僕の批評の役割。
これはまず、短歌評論賞に応募→アレに応募


詩人は時に実学的知識を得なければならないだろう。詩人ほど信用のない職業は他にない。詩人たるもの、ある程の世の常を知ることぞ最も問われることではなかろうか。

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