曦宗達日記(2020年2月後半)

二〇二〇年二月十七日

ライバルは、(例)たとえその領域のオンリーワンの研究者になったとしても別分野からの組み合わせでやってくることもある。
ミケランジェロとダヴィンチみたいな可能性もあり得る。

京都に住みたい理由。
・京都弁(関西弁)で喋る人になりたいから。関西弁という圧倒的異言語が好きになってしまった。
・古都に住む日本人としての涵養性の高さから。
・関西芸人と関東芸人のギャップの差から。(やっぱりしゃべりも漫才もネタも関西人の方が雰囲気あってクオリティ高い。)


二〇二〇年二月十九日

小説はいつからでも始められる。何故なら小説を書くのも読むのも学問だから。小説はよく天才しか書けないだ幼い頃からの読書経験が大事だ言うが、僕は大学生から小説を書き始めたと同時に小説を本格的に読み始めたのがこの時期である。それでも進められる。
つまり、学問がいつから始まっても、終わりはないのと同じで小説も学び続ける限り、書き綴ることはだれでもできるしいつからでも始められる。書きながら読み、これを繰り返すのがポイント。

やりたいこともやりたくないことも動機付けの力が強ければやる気になる。

生きる道がなくなってきた。これは思い込みかもしれないが、動き出すほど鬱になってく。

卵を潰す可能性があるAI。デメリットはデカいと聞くが、その本質を知り、操れるようになると良き。
Pythonプログラミング。直ぐに実行できる。

直感↓何故そう思ったのか?

何故皆スーツを着るのか。何故スーツみたいなきっちりとした感覚の服装を着るのか。落合陽一のように広々とした格好をする人はいないのか?かっこよさとは何だ。


仏教は、いつだって「全体性」への視線を持ちつづけてきた。「色」という部分を見るのにも、常に「空」という「全体性」の反映を見ようとしてきた。それは、ミクロにもマクロにも「宇宙」を感じてきたからに違いない。

個々の家の明かりが集まって街明かりとなり、街明かりが集まって地球を照らし、地球を含む惑星が集まって太陽系を形成し、太陽などの恒星が集まって銀河を造り、銀河系が集まって銀河団を造り、泡のように拡がる銀河団をまとめて宇宙の大構造と呼んでいます。

我々はつねに他人とつながりながら生きる。一人一人の存在は小さいが、一人一人が繋がることで大きな光となり変わり、その繋がりが宇宙でもある。
生命はつねに他のものと縁があって生起し、つねに変わり続ける。自然の光、例えば日光は夜になると無くなるし、蛍も夏以外は現れないため光を見れない。光はいわば生命。その生命=光は我々でもある。この幻想的世界観には因果、因縁の混ざり合った光(生命)の集合体と言っても過言ではない。

着るからにはその分別のことには集中して取り組まないと。

小説言語と幻想の美とバイオアートの研究と創作に取り組みたい。バイオアートの領域はまだ未知なるワールドであり、その研究は果てしない。自然の美に染みつく心に導かれた岩崎秀雄の「culturing cut」には最も心に残った。今後多大な幻想文学などに触れ、そこにおける神秘とテクノロジーとの融和性を見取りたい。

行動すること。とにかく動いて学ぶこと。これに限る。動きながら学ぶ。

教養、リテラシーをつける→メモアウトプット→作品制作。

理論だけで物事を進めようとしたがそもそも理論作成は時間かかるし追いつかない。もうこうなれば、ポジティブシンキング、これに尽きる。ずっと楽観的でありながら、常に知恵と情愛と意思を持ち続き、努めることは、自分の精神を向上させることにつながる。(ちょっと重苦しく考えすぎていたのだろうか。まあ、何はともあれバランス。)
いつも頭フル回転で消費が早いし、努めることは大変だから常にポジティブで笑顔で行こうか。


ビジネスをやるよりもアート制作を第一にやりたいが、自身のアートを見せるためにはビジネス力も必要になる。手段として会社就職もあるが、ビジネスを学ぶ場所はそれだけではない。ずっとそう思っている。一つはプレゼン。自分の芸術作品を理論づける必要がある。ビジネスマンや買い手に説明をする際にはそうしたコミュニケーションと情報発信が必要となる。一流アーティストは隠れていない。二つには、知恵をわかり、かつ今何が世に求められるのか、それを提唱するのがアーティストである。学者ばかりではどうすることもできない世の中を、アーティストによる自由なアイデアが議論提唱に結びつき、社会に影響を与え続ける存在でもあり、特に現代のテクノロジー問題は、アートによって切り開かれることも忘れてはならない。

アート制作でアイデアを考えるとき、常にアンテナを張ることに最低限心がけておくべきかと思う。アイデアは様々な物事を見ることによって生み出されるから。例えば百合のアニメを見たとき、ディープキスシーンから唾について科学的考察からその人の求めている背景、エロティシズムなどが浮かび上がる。こうした連装ごとは遊びでもありながらアート、学びである。
アートとは楽しむことこんな考えでも、いいよな?イイよな?


二〇二〇年二月二十一日

一つのことに1万時間費やし、それを×3すれば一〇〇万人に一人の逸材となるが、例えば、アートに一万時間となると、制作(技術)と研究・鑑賞は別なのか?それとも同じなのか?
美術はすべての学問への切り口である。そこには言語もある。オールマイティー。素晴らしい。


他の資格や就職には全然乗り気しないが、教員はまだマシ。英語はワクワク

言語感覚には優れても、言語が見えるアートには興味ない?


二〇二〇年二月二十六日

無意識にイメージすること、考えることと逆の考えをしよう(課題やら)

芸術が好きで何が合うか分からない。でも芸術家にはなりたい。社会への影響を与え続けるために。、

周りとは違う服装をすれば良い。スーツ姿が多ければラフに。みんなラフなら重厚に。

逆を生きる。文系から理系へ。今まで文系のものしか読まなかったが、今後は文理両方の知をつける。

やり続ける。
やめてもいいが、再び取り掛かる時は前回よりも深く、長く取り組む。これを繰り返す。一見甘いようにも見える。ただ、若者は特にやりたいこと、インスピレーションを受けたものには何でも好奇心を持つ。これが多動でもある。悪いことじゃない。

仏教とハイブリッドアートを考えた時、より生命を生々しく表現するためにバイオアートでやってみたいと強く思う自分がいた。生々しさがバイオアートにはあり、それをダイレクトに、かつ倫理や哲学的思考が見えるように仏教やらキリスト教思想が加わるとなお良き。

理屈は後で貨車でくる。まず動くことで勝機が出る。“後で気が付く寝小便”では遅いのだ。by春日一幸

いろいろ愚痴やら恐怖心やらカオスやらでどう解釈したら良いかわからない断片的短文が多いものであるが、これがほぼ一年間考えてきた私の足跡と考えても良いだろう。
アート制作をやりたいという主体性は社会人層であるために現実を考えない無茶なことをしているようにしか見えないかもしれない。
だが、学校での本当の自分を曝け出すことがないまま過ごしていたのが、学生時代でも、社会に出ても、自分のためにならないことばかりする人生になってきっと後味の悪い後悔をするだろう。夢中になれ。

どうせなら悪い後悔よりいい後悔をした方がまだ良いだろう。
アートは言語での説明も必要かつ言語でもある。

私は考える時は必死だった。
ビジネスは美術展にもある。
もしかしたら、みんなが気づかなかった私の本性を見てしまったのかもしれない。いや、そっちの方が多いだろう。


迷ったらすぐ決断、行動。なぜなら、理知的に立ち止まって確認するのも大切だが、僕は常にそこから考えすぎて動けなくなるから。


二〇二〇年二月二十八日

それからの10ヵ月間、YouTuberの動画を毎日のように見続けて勉強しました。そのなかで、「ある程度知名度のある人間がYouTuberに積極的に絡んでいる動画はない」と気づいたんです。その瞬間、「俺の新しい居場所はココや!」とピンときました。byカジサック

やっぱりサーベイしてる。


二〇二〇年二月二十九日

主体性からの疑問が読書にもつながる

気がつくまで待つしかない。気がついたら始めよう。長い休憩だ。

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