曦宗達日記:2019年6月(〜30まで)

二〇一九年六月十七日

文学とは作者の言葉であり、意見、主張である。だから読書においても、作者との脳内会話が重視されるものだと僕は思うのだが・・・。
これまでに書いてきた日記を読み返してみたが、教育面において母校だけが責任者ではないと思うかもしれない。これは学校のみならず、家族家庭、社会全体が皆そろって本当の学びを知って初めて「僕」がうまく育つというメカニズムなのかもしれない。まあ、学校自体の存在は悪というわけではないが、なぜ多くの人々は哲学、人間の本質を知ろうとしないのか。なぜ哲学を知らないのか。なぜ哲学を学ばせてくれないのか。(総合的な学びが必要ですが僕個人として最も大事なのは哲学だと思ってます。)なぜ演習っぽい授業がなかったのか。当たり前すぎる疑問かと思うが、これは僕だけが哲学を学んでいないのだろうか。それとも事実か。
ただ僕は、学校にうまく合わない人間だった。総合常識世界の中で、非常識、非現実者だった僕にとって、特に「勉強」に至っては全くダメだった。僕は鈍いから、一発で覚えられず、皆ができることが、僕には全くできないことがあった。とにかく抜けていた。だからテストや模試はキツイものは極端にキツかった。苦手科目はとことんポンコツだった。今思うと、大勢人がいる予備校の中でよく行ってよくテストにうまく励んだものだ。特に高校生の僕は。いろいろなことを舞い込ませてバタバタにさせて夢を失わせる。とにかく大学進学。とにかく大学進学・・・。行けるもんじゃない・・・。もう疲れたわ。大学生になって気づいたことが幸いだったかもしれない。もし大学生の僕が中高の生活に戻ったら、死ぬか途中で逃げてしまうかもしれない。中学、高校とずっと虚構世界を脳内で描き、高校時代はそれを少しでも表出しようと俳句を始めた。多分これらが、「曦達久」が死なずに済んだ理由だったかもしれない。とにかく学校という存在は僕にとって、大きな両義的な、ジレンマ、二律違反という苦悩の象徴だったかもしれない。
僕はこれで確信した。同時進行や両立ができない。日記を書くとき、小説を書くとき、タイム制限をかけるも夢中になって終われないし終わっても別のことが頭に浮かんで次の行動に移せないし頭のドーパミンが激しくてコントロールやブレーキもできない。そうなると深呼吸どころじゃない。よく整理のためにどうのこうの呼吸というが、僕はもうそれどころじゃないためそんなの役に立たない。もう無理だ。しかも僕は失敗した後や話したいことが話したい時にできず、終わって後々気付くタイプ。だから僕は、何にもなれない。会社に行けない!会社員になったら絶対人生潰れると思うし哲学や芸術などでみんなと合うかすらわからない。僕は同じような趣味を持つ人としか話し等がなかなかできないから、もはや潰れてしまうかもしれない。ムリだ。マジでムリだ。もし両親が僕を会社にブチ込もうとするなら、まずサポートをしっかりやってほしい。支援センターで色々教えて欲しいもんだ。この時期バタバタしてたから耳鼻科にも精神科にも行けなかった・・・。やっぱり僕は他力本願な人間だ。だから、コミュニティーを求める人間なんだ。相当手間のかかる人間と言われても仕方ない。もしかしたら僕はタチの悪い人間かもしれないし絶対家族の中で一番厄介迷惑者としてずっと君臨し続ける羽目になるのは間違いないだろう。ああ、ずっと転び続けた先の哲学カフェがあった。奥田先生もいるということからなんか、面白そう。というか、哲学カフェこの世に多いなあ。この哲学カフェは西洋哲学メインになるのか?それとも人間としての哲学で哲学の応用でありこれが真の哲学とも言えるかもしれない。まあ、聞いてみればわかるだろう。学生がいたら本望だ。バイトしなければならないのはわかるが、バイトばかりが金儲けではないと思う。それに、暇な時間ほど小説に熱中できるから、バイトと考えるとなると、僕にとっては体とメンタルと時間との両立性という難しいミッションに遮られてしまう。こうなりゃ放浪でもするか・・・。本当に、僕はどうしちゃった?
ちなみに、この日記を親はどう受け止めるのか?前にも書いたと思うが、これを一度でいいから、僕が死んでから読むというのは遅いから早いうちに本音を知ってもらいたいと思う。(くれぐれもパソコンは壊さないでもらいたい。)


二〇一九年六月十八日

就職したくないという理由には、ニュースや本などでブラック企業などが次々と出てくるから完全不信用に陥っている。というのも確かだが、これと関連するかもしれないが、一番不安なのは、いざ、会社に入ってその人物たちと息が合うか合わないかによって大きく生活も狂うと思う。これは多分、インターンなどでは把握しにくいことから最も見たいものが見えなくなる。故に就職、会社勤めには今は心残り、蟠りが消えない。
やはりスケジュール管理は、感情・ドーパミンには勝てない。
やっぱシャワー浴びると醒めちゃうね。


二〇一九年六月二十日

僕は努力という言葉がはっきり言って大嫌いだ。僕は無意識から有意識に変わることはあるが有意識を無意識に変換することはできない。努力ということをいろんな人がすぐ言うが、そうした挑戦的に生きたことのない人が言う努力はあまり聞かない方がいいと思う。本当にハマる、かつ得意分野であれば最高。だが、苦ばかりの得意分野は最もかわいそう。学校の勉強第一というバカどもの意見は無視してもっと楽観的に生きようじゃないか。就職については、最近人文学系が求められると聞くが、特にテクノ業界では取り入れ必須という方もいる。日本だけじゃなくアメリカでも頭をかかえることもあるんだなあ。しかし、それでもやっぱり不安は残る。会社とは備えてない能力を求められることもある。しかも僕ははっきり言って芸術系を求めている人間である。それらがうまく応用できるのか?物書きを始めると、やっぱりそれが感情の高まりであり、モチベーションでもあるのか、それをどうしても、時間が過ぎてもダラダラになってまでも、小説を書き切りたい気持ちがでかくなる。それでスケジュール管理に失敗するし、もちろん、完成したらそれで喜んで元々のやることをやらなくなってしまう。やぱり僕はスケジュール管理と感情コントロールはダメだ。


二〇一九年六月二十一日

なんかもう今日は疲れた。これも大学の授業が毎日あるせいで環境が僕にとってめちゃくちゃ辛い。
やっぱり僕は文研のみんなとも合わない。みんな僕のこと忘れたいのか?
僕はやっぱりみんなと違ってグループでの会話ができない。みんなの会話がつかめなくて途中からどうやって入ればいいのか分からない。だから怖い。おまけに自分の好みじゃない話はなぜか耳に入ってこない。これはとてつもなく苦痛だ。やっぱり南山大学とは合わない。でも、これの延長線が就職、会社勤め。今考えればすごい嫌気が差す。今大学生活がどうしようもない自分にとって、就職会社勤めなんて悪循環以外にない。もし大学卒業を求めるのなら、就活、就職せず生きていきたいものだ。見えるのは生と死。果たして僕はどっちを選ぶ?僕の感情は大きな力が作用するため、コントロールが極端に難しい。だから、やりたいことも、好きなこともコロコロ変わる。これで実行して失敗するパターンがあるから我慢しなけりゃならないけどその力が会社の社畜となって裏目に出ればアウト。ホリエモンのことも間違いはない。
苦悩が甘えにならないよう、精神崩壊にならないよう、なんとかメンタルを奮い立たせなければならないのが本当にしんどい。バイトも始めたいが、踏み込む勇気が出ない。我慢って何?
小説を書くときは、本当のモチベーションが起きない限りできないものかと思う。この一年、いや、半年でいいから文学に熱中したいものだが、次々といろんなことが舞い込む。どう整理すればいいのやら。やっぱり僕には相当たる支援が必要だ。卒論は自分の描きたい小説のジャンルの造詣を深めるものがいいかなと思う。本当に小説家になりたいか?死んでもなりたい。ネタとして後々描きやすくなるのだから、これはこれで人生に関わる壮大な卒論になるのでは?と考える。もしジャンルが決まらないのであれば卒論や研究に流れていくのもありかなと思う。それによって読者や研究者の解釈がわかりやすくもなるだろう。
一秒もその時間を惜しんではならない。本谷有希子、中原昌也などの作家と対比してもらった。近代文学の先生には感謝してます。
これからは一作品ごとお気楽に書ける。心置きなく書ける。あ、でももし書き直しや賞に失敗したらまたメンタル削らなければならない。飯食わずどれほどいけるか。そもそも賞を取ることに意義があるのか。


二〇一九年六月二十三日

変えていかなければ、変えていかなければならない。作風を。僕がなぜ就職への抵抗感が大きいのか。もし、就職して、その仕事が楽しい、運命の出会いになったとすれば、もし文学よりもその影響が大きければ、文学が自然と消滅してしまうのだろうか、仕事の時間で小説執筆ができなくなってしまうのだろうか。それに、卒論に集中したいのが僕のもっともな本心かもしれない。周りから影響されずにやり抜きたいのだが・・・。


二〇一九年六月二十四日

俳句、メディアアート、ともに一個目の難関をクリアしてそれに疲れてしまってやめてしまった。小説だけは、せめて続けたい。
僕は一体全体、何になりたいのか。よくお金のために就職と言われるが、本音を言わせてもらうと、就職より主夫として、里親として子供を育てるほうがいいと思う。確かに新しく子供を産むことで少子化の対策としてなされることもあるだろうが、親のない生きている子供が無視されるのは気の毒な問題で、彼らは将来的に社会から冷遇されやすく、そうした子供は増えるのかもしれない。そうしたこどもを支えるほうが重要になることもあるのでは?自己愛を育ませるため、育てるといってもせいぜい一人か二人くらいが限界。里親になるためには研修を受けなければならないが、技術面重視にならなければ良いと思う・・・。
僕は芸術がどれだけ大事かを様々な面で知ったから、それを伝え、育むことがモットーかと考える。それならば、自分を極め、学生時代を全力芸術で生きる。ちなみに僕は文芸かな。文学研究や捜索に全力を尽くし、親を呆れさせるほどにやって見せたら見方も変わるではないだろうか。就職とかで空回りしてしまうよりも自分の意思で失敗したほうが学びはでかいと思う。やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいい。小説以外に短歌にも挑戦してみようか。


二〇一九年六月二十九日

小説創作は相当苦しいが最もやりたいもの。だから、一度入ると滞っても続けたくなる。抜け出さないとならないのに抜け出したくない。他のこともやりたいのに創作を終わらせたい気持ちが勝って動けない。これは中毒だ。もちろん、しばらく頭から離れたいのに離れられないからストレスが大きい。離れたら地獄。一巻の終わり。小説創作をしばらくやめようかと思っても抜けられない。創作に生き、創作に飢えた男だ。やめたらそれこそ中途半端な人間扱いされる。やめられん。今図書館から出るのも苦痛だ。憂鬱だ。ああああああああ地獄。こんなに地獄を味わうことはない。地獄、ごみ、クズ、社会不適合者の行く末、アニメや他の本を読みたいのに創作に苦しむことになるとは思わなかった。
というか創作には受け身も必要。つまりは読書が必要だ。僕はみんなと違って読むことから出なく創ることから始まった人間で皆とは違うルート。だからみんなは創作が苦じゃないと思うが僕は真逆だ。でも一つ冷静に言えることは、今創る僕の小説は失敗するパターンが多いだろう。
二十六歳までに作家デビューを考えているため、長期的な面ではあり、焦ってはいけないとわかってはいるものの、なぜかやめられない。抵抗する。いうは易し行うは難し。この世は絶対いうは易し行うも易しでなければならない。そうするためには世界をひっくり返さなければならないだろう。
エミリーディキンスンは死に傾倒することもあった。死のことを気にし、自分が死ぬことを予想する。これと僕は似ていることもあり、僕はいつも四十八で無くなることをイメージすることが多い。だから今を全力で生きる。


二〇一九年六月三十日 

やっぱりバイトに踏み込める勇気が出ない。トラウマによるフラッシュバックは克服できた?がやはり脳に蘇ると如何しようも無い。

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