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3月 幻灯劇場第十回公演『DADA』

先日、伊丹アイホールで上演された幻灯劇場第十回公演『DADA』の創作過程について、きっかけとなった2013年の冬から書いてみます。ちょっと長くなるかもしれません。長いことこの作品に向き合ってきたもんですから。

※上演風景と歌詞はこちら


京都駅のホームレスとの出会い

物語の冒頭、ホーレスのサンショウウオがロッカーに捨てられたラジョを発見する。

2013年。僕は兵庫県立宝塚北高校演劇科に通うため、滋賀県の実家から毎日片道2時間50分かけて通学していました。演劇が好きで、演劇科の授業だけでは物足りず、演劇部にも入って作品を作っていました。演劇の授業と演劇の部活が終わったら、放課後は観劇に行くか劇場の資料室へ戯曲を借りに行くという日々でした。
2時間50分かけて登校するということは、2時間50分かけて下校するということでもあります。放課後の練習や観劇が長引いたりしてしまうと「どうしても京都駅までしか帰宅することが出来ない」という事態が発生してきます。

高校時代の幻灯メンバー。『ファントムペインに血は流れるか』の稽古場風景

深夜の京都駅には始発を待つサラリーマンやら、どういう事情を抱えているのかよくわからない人達やらが点在していました。彼らが眠ろうとするとすぐに警備員がやってきて注意するので、みんな立ったまま休んだりしてました(当時の話ですが)。
僕も寝ようとして注意されたので、寝場所を探してウロウロ彷徨っていると、近鉄シャッター前に沢山のホームレスが固まって眠っていました。警備会社の管轄が変わるらしく、そこであれば警備員に起こされることはなかったのです。僕は疲れ切っていて横になりたかったので、彼らの横に寝転がりました。
かなり寒い時期で、うずくまってカチカチ震えていると一人のおじさんが「ダンボール入るか?」と包まってるダンボールを分けてくれました。ありがたく一緒に眠ることになりました。その夜は出会ったことのない沢山の人に出会いました。深夜に足でホームレスをこづいて「仕事いるか?食べてるか?」と聞いて回るおじさんがいたり「お金やるからホテル泊まりな」とお金を差し出してくれるホームレスのおじさんがいたり。
京都駅は通学路なので、ちょくちょく皆とも会うようになりました。元タクシードライバーでその前の職業はどうしても言えない人や「俺しか知らない安くてうまい店教えてやるよ」と、なか卯を教えてくれたおじさん、「仕事がない日はポルタが開いたら皆ひとまず地下に潜るんだよ」とホームレスの一日の過ごし方を教えてくれる人もいれば、京都駅の幽霊の話をしてくれる人もいました。幽霊の話なんか、お爺ちゃん滑舌が良くなくてよくわかんなかったけど、所々面白かったのです。

この出来事がきっかけで、京都駅に集まるさまざまな事情を持つ幽霊とホームレスの物語を書きたいと思い始め、『DADA』という物語を書き始めるに至るわけです。

ミュージカル作りに手を出してしまった……

2017年の初演『DADA』ケンちゃんのライブ(ロームシアター)

2013年に物語の軸を思い付き、15年にはプッチーニの『トゥーランドット』を下敷きに京都駅を行き交う幽霊の悲喜交々を描くミュージカル作ろうという構想のもと、ミュージカル俳優の友人と楽曲製作を始めました。数週間後、その友達がミュージカルの仕事で忙しくなり、あっけなく企画は頓挫する。
(現在では全く違う物語になったけど『トゥーランドット』に出てくる「ピン/ポン/パン」という三人組は初演『DADA』では「バッキー/ベッキー/ボッキー」という三人組として登場し、2023年版では「汗田/萌/美咲」として登場しています。)

ケンちゃんとマネージャーの小石

2017年の初演

藤本匠というギタリストと出会い、彼の作曲で再び作品製作が動き出す。赤ん坊の喃語がダーダーと聞こえることから、死者が駄々をこねる物語だから等々の理由で、タイトルが『DADA』に決まった。
オリジナルミュージカルの製作には、乗り越えるべき課題が山のようにある。結局、ロームシアターで上演した初演『DADA』の楽曲は三曲のみに留まり、俳優を歌える状態まで持っていくことも難しく、あまりに不完全燃焼な上演だった為、終演後すぐに俳優達のスケジュールを抑え一年後、再演することになった。

2018年の再演

さて一年後。若い劇団にはよくあることだけど、上演の直前、作曲家が音信不通になった。作曲家は舞台美術家も兼ねていたので割と大騒動になった。仕方ないので、歌詞を書いて稽古場へ持っていき俳優と曲をつくっていく。舞台美術も同様で、上演ギリギリのタイミングで俳優とカナヅチを持ってトントンカンカン作った。
芝居の稽古よりもカナヅチ持ってる時間が長い稽古場だったもんで、お芝居はボロボロ。幻灯始まって以来の酷評を受けたと思う。
嬉しい発見もあった。稽古場で歌をつくる中で、本城や松本、鳩川にはメロディメイクのセンスがあることがわかった。作り方を変えればもっと良い楽曲が出来る。劇団員は少しうんざりしはじめていたが、僕は機会があれば再再演しようと心に決めていた。

再再演したいのに再再延期

初演『DADA』ロッカーに引き籠るラジオ君とマリアさん

2018年。幻灯劇場は京都府が主催するU30支援プログラム(以下「U30」)に採択され、2019年-2021年の三年間サポートを受けることに。最終目標として2021年に『DADA』の再再演を行うことが決定した。三年かけて『DADA』という作品にもう一度挑むチャンスを掴んだ。
二年目には本城祐哉が作曲する体制での作品づくりも安定してきた。トレーニングの成果もあり、劇団員の歌唱能力もどんどん上がっていく。その頃には『DADA』は楽曲数が16曲程もある二幕もののミュージカルになっていた。

そこへ、コロナ禍が直撃する。
2021年1月 感染防止を徹底しながら稽古を進め、遂に二幕まで全て振付と芝居が出来た状態まで辿りつく。が、感染爆発に伴い全公演中止。

2022年に延期された『DADA』だったが、感染防止策を徹底しようとすれば劇場から提示された日程では足りず、追加日程について劇場と話し合いを重ねた結果、U30企画内での『DADA』上演を断念する。
(U30では『DADA』に変わり『鬱憤』という新作を作ることになる。感染対策について劇場と揉めなければ『鬱憤』は生まれなかった)

その後、別の劇場での延期公演を試み劇場を抑えるも、コロナ禍での劇団の経済的ダメージにより、断念。再再演『DADA』は再再延期を喰らうことになる

ミュージカルから音楽劇へ

『DADA』23年版 ケンちゃんのライブ

「『DADA』の上演は諦めるべきかもしれない」という考えがよぎり始めた頃、兵庫県伊丹市の劇場・アイホールが無くなるかもしれないというニュースが流れてきた。高校時代、放課後観劇しに通い勉強したあの劇場が無くなってしまうという。かなりショックだった。幻灯を立ち上げる時、一番に相談したのはアイホールの職員さんだった。死ぬまでに一度は上演したい、恩がある劇場。僕達はすぐ、アイホールで『DADA』を上演する準備を始めた。
まず全体の予算を縮小して作品を作ることにした。例えば、当初(2021年)の予定ではヘッドセットのワイヤレスマイクを人数分用意していた。マイクを用意しオペレーターをつけるだけで4-50万は必要になる。23年版では劇場を借りた際に使用できる機材の中で作品を構成していくことにした。ヘッドセットを使わないとなると、芝居と歌を完全にシームレスに行う“ミュージカル”は難しい。劇のスタイル自体を“音楽劇”にスライドさせることにした。

数年かけてつくってきたミュージカルを音楽劇にする改訂作業は簡単では無かった。が、良い面もあった。ミュージカル版の『DADA』では、物語の高まりに合わせ楽曲をぶつけ、曲の中で物語を進行させていたが、音楽劇にするとなると台詞でシーンを進める必要が出てくる。音楽劇に改訂したお陰で、好きな言葉に沢山出会うことが出来てハッピーだった。

信頼出来まくるスタッフ陣

衣装合わせの日、稽古場でライブのシーンを踊ってみる

まず衣装の鷲尾華子さんと巡り合ったのはあまりに大きい出来事だった。鷲尾さんは劇団四季の衣装部でバリバリ作品の立ち上げをしてはった方で、その後伝統的装束から現代的な衣裳デザインまで手掛けていらっしゃるデザイナーさん。
鷲尾さんとの打ち合わせは殆ど雑談で、お互いの最近の興味あることとか、これまでの人生の話とか話している内に楽しく時間が過ぎていく。雑談の中に作品に繋がる破片を見つけるとサッと拾って「こういう色とかどうだろう」という話が始まる。無理に前へ進めようとしないのに、気づいたら何歩も進んでいる。そんな自然な創作姿勢が衣裳にも現れている気がして、多くの演出家が彼女を信頼する理由がわかった気がした。

サナエの衣装合わせ。ロンドンの女の子みたいなイメージ。
サンショウウオは重ね着とパッチワーク。とにかく寒さを凌いで、首を守る。

美術家の柴田隆弘さんのデザインによる舞台美術も、この作品の世界観を根底から支えてくれた。柴田さんは維新派やMONO等の美術を手がける美術家で、子供の頃からの憧れの存在だった。

高低差が3.5mもあるので、上と下とでは気温が全然違う
十八年前のトイレは、現在のトイレとペーパーホルダーの形が違う

依頼内容と企画書をメールで送ると「なぜ僕に依頼を」と返信が返ってきたので「子供の頃からあなたの美術に憧れてきたからです」と、長文のラブレターを送りつけた。返事は一言「わかりました、やります」だった。かっこいい。

「地上は人間の居場所/地下は死者の居場所だった時代を描きたい」と伝えると、回り盆を含む高低差3.5m越えの巨大な美術のラフが届いた。ドキドキした。し、演出家として試されていると感じた。
可動式の階段も大きな回り盆も、俳優やスタッフが手で動かす。劇中の暗いシーンでの転換は事故の危険性がついてまわる上、移動完了までに時間がかかる。その間の安全を確保しながら、人員を整理し、観客から見て風景も楽しめるように演出し、最後のミザンス(構図)も効果的な位置に指示する。演出家として背筋が伸びた。

当然演出の情報量は膨大になる。僕一人では誰か怪我人が出てもおかしくなかった演出プランに手を貸して下さったのか、演出助手のチェケローさんだ。

ロープを結んだり解いたりして遊んでいるチェケローさん

頑なに本名を名乗ってくれないチェケローさんはTHE ROB CARLTON(ザ・ロブカールトン)の演出助手さん。彼との出会いはABCテレビの「THE GREATEST SHOW-NEN」の『鬱憤』回だった。チェケさんはグレショーの現場に演助として関わり続けていて、舞台スタッフとテレビスタッフとの間で齟齬が起こらないよう先回りして動き続けてくれていた。
その物腰の柔らかさ、情報整理の鮮やかさ、仕事の速さ、なにより真顔で繰り出されるバスターキートンばりのユーモアに惹かれて、また一緒に作品を作りたいと思いお声がけした。『DADA』終演後の今では、今後チェケさんのいない現場で作品を作りたくないと思うほど、とにかくお世話になった。

余談だけど、彼はこじけん(小島健)に懐かれ過ぎていて、彼にメジャーやストップウォッチを借りると、大体こじけんに落書きされている。こじけんの落書きを見過ぎて、こじけんの字を覚えた。

美咲が気合いで成仏しようとするシーン

これだけの高低差があり、なおかつセットがガンガンに動く作品を安全に上演するには舞台監督の河村都さんが居なければ不可能だった。都さんのいない現場で演劇したくないくらい都さんは幻灯作品の最重要人物。

照明の渡辺佳奈さんは非常に多い修正願いを全て引き受けて上演へ辿り着いてくれた。一つ一つの場面が美しい。音楽劇の要である音響を担ってくれた道野友希菜さんもプロフェッショナルだった。追加のお願いを恐る恐る伝える度「え〜、いいですよぉ〜」と引き受けてくれた。運営を統括してくれた岸日和多さんも頼もしく、千秋楽、増席分があっという間に売り切れてしまった時も「大丈夫です。もう少し入れるようになんとかします!」と魔法みたいなことを言って、実際に「なんとか」してくれた。この座組の誰一人欠けても、無事に上演できなかったと思います。関わって下さった全員に感謝します。

『夜に潜る』 30×28cm 2022 アクリル 綿布 パネル

最後に、メインヴィジュアルに作品を貸してくださった画家の廣田美乃さん。劇団の広報チームがどんなヴィジュアルが良いだろうと思案していた所、廣田さんの『夜に潜る』に出会った。
僕は最初にこの絵を観た時、右の子が無防備に眠っているのに対して、左の子は仏のような半眼で起きていて、もう一人の子供を守っているようにも見えた。僕の中で、眠る幼子は肉体を休める必要があるラジョに重なり、半眼の幼子は、肉体を持たずあちらの世界とこちらの世界(瞼の内と外)を行き来するケンのように見えた。この絵に感動して、物語の終盤、この絵の時代から時が経ち関係性が変わった二人が毛布に包まって会話をするシーンを作ることにした。廣田さんには感謝してもしきれません。
作中何度かケンが寝ようと試みることがあるが、幽霊は肉体がないから眠る必要がない。眠ることは生への憧れに繋がっている。毛布や枕などの寝具も全ては生きることに繋がる。「幽霊は眠る」という呪文は「幽霊は憧れる」という意味なのかもしれない。

あの夜、京都駅で寝る場所を探していた僕が、10年後、幽霊と人の兄弟が京都駅で眠ろうとする物語書くわけですから、人生って妙なとこでユーモラスですね。

稽古場のラジョとケン

再再再演したいな

初演から7年間作り直し続けて思うことは【再再再演したいな!!】っです!!! 今回は全公演トリプルコールを頂くなど、今までの『DADA』の中で最も受け入れられた上演だったと思います。だが!! 次回の上演ではより面白く、より深く楽しんでいただける作品になる予定です。
なので再再再演する時は是非、観に来てくださいね!

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